予め国立歴史民俗博物館の展示に関わってことほどかほどに長くなると想定しては思いもよりませんでしたけれど、ともあれひと段落として千葉県佐倉市をぶらりというお話に移ってまいります。と言いつつ、少々時間を巻き戻して、国立歴史民俗博物館に到達するちょいと前、京成佐倉駅から博物館へと歩く道すがらのところまで。

 

 

「←国立歴史民俗博物館」に導く道標には市内の地図とともに「11万石の城下町 佐倉を訪ねる旅へ」とありますですね。博物館は小高い丘(標高は30mほどということで)の上にあるのですが、そにはかつて佐倉城が築かれていた場所なのですな。江戸中期以降、佐倉藩堀田氏の居城として、幕末には井伊直弼の大老就任で失脚するまで老中首座を務めた堀田正睦もここのお殿様だったという。今ではお城の建造物はおよそ残っておりませんが、あちらこちらに往時を偲ぶよすががあると、解説板は教えてくれるわけでして。

 

 

ただ城跡らしき建造物を留めていないのは、明治になってこの場所が陸軍歩兵第二連隊の駐屯地とされたからでもありますね。江戸期にお城だったところが、陸軍に接収されたのは上州高崎城摂津高槻城などでも見て来たところであったような(もちろん他にもたくさんありましょうけれど)。それだけに、今は全体として「佐倉城址公園」となっているあたり一帯、かつてのお城の遺構を示す解説板と軍事施設であったことを示す解説板とがそこここに入りまじって立てられているのでありますよ。

 

 

でもって博物館のある、丘の頂上の平坦な広まりも同様なわけですが、どうせならやっぱり見ておきたいのがこのあたりではなかろうかと。

 

 

「下総国佐倉城天守跡」。右側に置かれた、どっしりとした石の上には天守から見下ろす本丸にかつてこうであった…という「本丸屋形配置図」が描かれておりますよ。結構広いですな。

 

 

でもって、本丸屋形があったであろう場所は今すっかり平地になっており…(ちなみに天守跡は下の写真では左手奥のたかまり部分になります)。

 

 

春には桜が咲き誇り、恰好の花見スペースを提供してくれているわけですが、「佐倉」の地名と「桜」に関係があるのかというとどうやら全く関わりなさそうで。かつて利根川と通じて印旛沼も舟運の拠点となり、あたりに倉が建ち並んだことには所縁がありそうですけれど。

 

ともあれ(上の写真、右手に見える)台所門跡から本丸を離れ、しばし日本百名城のひとつになっている、この平山城(高さ30mほどですので山城とまでは言えませんよね)の跡をうろうろすることに。しかしまあ、標高30mとは侮れないものですなあ。

 

 

かつてのお城や陸軍関係の建物があったところには解説板もあちこち見受けられたのですが、思いのほか道標は少ないようで、木立の中を下りたり登ったりするうちにすっかり迷子状態に陥ったような始末でありましたよ。それでも何とか出口に到達できましたですが、一時はどうしたものかと…(笑)。

 

 

出口に到達…とは申しつつ、実のところはこちらこそが佐倉城址公園の入り口なのでしょう。近くにある管理センターではおそらく園内マップなども入手できたことでしょう。さすれば、迷子になることもないわけで。

 

 

おそまきながらですけれど、最後に「日本百名城 佐倉城の歴史」を振り返っておくとしましょう。

佐倉城は、戦国時代中頃の天文年間(1532~1552)に鹿島幹胤が築いたといわれる中世城郭を原型として、江戸時代初期の慶長15年(1610)に佐倉に封ぜられた土井利勝(1573~1644)によって翌慶長16年(1611)から元和3年(1617)頃までの間に築城された平山城です。徳川家康により、江戸の東を守る要として重要視されました。…歴代佐倉城主(佐倉藩主)のうち9人が老中となっています。これは全国最多で「老中の城」と呼ばれています。なかでも幕末期の城主堀田正睦(1810~1864)は、財政難に苦しむ佐倉藩の改革に成功するとともに日本を開国に導いた開明的な老中として有名です。

と、ここからは城跡をあとにして佐倉藩士の住まった城下町へと歩を進めてまいるのでありますが、それはまた次回に。