…ということで、高崎市役所 はかつての高崎城内にあるわけですけれど、
今やこの城内エリアは市役所のみならず、公共施設などが立ち並ぶ地域と化しておりますね。


現在の高崎城址


辛うじて残るお堀を外枠と見て、これに囲まれたところを眺めてみれば、
高崎総合医療センター、前橋地方検察庁高崎支部、前橋志望裁判所高崎支部、

高崎市総合保健センター、高崎郵便局、市立中央図書館、高崎シティギャラリー、

群馬音楽センター、そして高等学校に中学校などなど。
これだけのものが建てられるのですから、広さは結構ありますよね。


往時の高崎城


そのような敷地に高崎城があった時代には、このような構えになっていたそうな。
上の部分(実際の方位では西側)は烏川に面して、残り三方を堀で囲んであったわけですが、
往時そのままの姿を今に伝えるのはその三の丸土塁と外堀しかないようですね。
高崎市の指定史跡になっています。


高崎市指定史跡「高崎城址(三の丸外囲の土居と堀」


お堀沿いに追手門(のあった)方向へ進んで行きますと、
上の見取図で見られるように角々した部分を通ることになりますが、

この部分を「出桝」というそうな。


旧高崎城三の丸堀の出桝の一角


平面で見てしまうと単なる角のひとつにしか見えませんですが、上から見下ろすと確かに!と。
高崎市役所展望ロビーからですと、こんなふうに見えますですよ。


堀の出桝を高崎市役所展望ロビーから


お城が軍事拠点であった頃には防衛上の意味があったのでしょうけれど、
その意味が失われた後には道を通すにも不便な形であって、
もはやお城も残っていないとなれば、もはや潰してしまっても…となりそうな気もしますが、
この桝形が都市開発の波をよく掻い潜ったものだと思いますねえ。


さて、この「出桝」を通り過ぎてなおお堀端を進んで行くと
「おや?お城っぽいじゃん」と思える場所に到達しますが、

どうやらここはかつて追手門のあった辺り。
そこに乾櫓と東御門が移築復元されたのだそうで。


高崎城址でもっともお城っぽいところ


乾櫓は高崎城本丸を囲む土塁の四隅にあった櫓のひとつで、

その名のとおりに北西の方角にあったわけですね。


それを移築復元といいましたけれど、

本丸を打っ潰してしまう際に追手門のあった場所に移築したなんつう
単純な話ではないようで。


先の県庁争いの話のところで、

高崎城は兵部省(後に陸軍省)に接収されたと書きましたけれど、
兵営や練兵場などを造るために城内の建物は不要となるも、

使い回しできそうなものは払い下げになったそうな。


そこで、近在の農家で名主を務めていた人が乾櫓と東御門の払い下げを受け、
櫓は納屋として、門はそのまま自邸の門として使用していたという。
それが市に寄付され、群馬県の重要文化財にも指定されて、

移築復元されることになったのだそうでありますよ。


旧高崎城乾櫓・東御門


駿府城山形城 などもそうですが、

お城の復元はあちらこちらでプロジェクトが進行中ですけれど、
今では数々の施設が立ち並ぶ敷地にもはや高崎城そのものを復元するのは無理でしょうから、
せめてこの乾櫓・東御門だけでも高崎城を偲ぶお堀・土塁プラスアルファにしたいと考えたものか。


どうやら乾櫓をにしても、

乾櫓はこうであったというのを正確に復元したというより、いささか化粧を施しているようで。


と言いますのも、上の写真で櫓から右手には鉄砲狭間を穿った塀が続いていて、
お城の守備を思わす便とも思われるところながら、これは単に「修景」であるのだといいます。


また、櫓の土台にはこれまたいかにもな石垣が組んでありますが、
本来「乾櫓には土囲上に1m足らずの高石台があったに過ぎない」のだと解説板にありました。


パッと見て「おお、立派な」と思うと、実は虚飾(とは言いすぎかも)であったてなこともあるわけで。

とまれ、明治になってあちこちのお城が無くなった理由はさまざまなれど、
高崎城の来し方はこんなふうであったのですなあ。



ブログランキング・にほんブログ村へ