岐阜県多治見市でモザイクタイルミュージアム、多治見市美濃焼ミュージアム、とうしん美濃陶芸美術館と訪ねまわり、古いところからリアルタイム現代に至るまで、さまざまなやきものを見て来たあたりを振り返ってきましたですが、多治見でもうひとつ、岐阜県現代陶芸美術館のことに触れておこうという次第でありますよ。
これまた東鉄バスに揺られることしばし、「セラパーク 現代陶芸美術館口」というバス停で下車しましたが、バス停名についている「口」というのが食わせもので、バス停から美術館までは徒歩約10分とはいえ、全面的に登り坂ばかりのようす。これを登り詰めて「ああ、この建物か!」と。
これまで見て来た多治見市の施設とは異なって、さすがに県立となりますと大きな建物ですが、さすがにこれ全部が美術館ということではなくして、一部分がということになります。バス停名に「セラパーク」とありましたように、全体としては「セラミックパークぱーくMINO」として、美術館ともども美濃が誇る陶磁器文化の発信施設ということで。全体像は磯崎新が手掛けたようですな。
ともあれ「陶芸の現代」をテーマにしたこの美術館、確かに他でも現代陶芸を目にしたものの、訪ねたときに開催中であった特別展「三島喜美代 - 遊ぶ 見つめる 創りだす」(11/26で閉幕)ほどに社会問題をアートで提示するといったところはありませんでしたので、「ああ、現代アートであるな」としみじみ感じたものでありますよ。
おそらくは上のフライヤーを目にしてもどんな展示か想像しかねるところでしょうけれど、些かなりとも予備知識を得ればとっつきやすくなりそうではないかと。美術館HPの同展紹介ページにはこのように。
情報化社会や大量消費社会のなかで作られては廃棄される、新聞やチラシ、ゴミを題材とする作品は、ユーモアを含んだ表現であるとともに、現代社会の問題をみつめる三島のまなざしを伝えています。
会場内に入るより先にこんな作品が置かれてあるのですものね。紹介にありますように、ユーモア含みでありながらもコンセプトは明らかなような。でもって、会場内へと踏み入りますと、展示の度合いは格段にパワーアップしてもいたり。
世の中で大量生産・大量消費されたものがその成れの果てとして放置されていたりする…というのは、実はどこの町でもどこかしらで見かけていながら、その実体をスルーしているところがあろうかと。敢えて美術館の展示室に散乱が再現されると、改めて気付きになるのは何とも不思議といいますか、だからこそのアートなのでもありましょう。しかも念の入ったことには、どれもこれもがリアルに作られているという。
めくれ上がった少年漫画雑誌のページは『釣りキチ三平』とはっきり分かりますし、下のくたっとした段ボールなどは「実際に段ボールなのでは?!」と思うほど。ただし、箱の中の英字新聞は何とはなし、ネタ晴らし的でもありましょうか。
改めてここは現代陶芸美術館であると言った上で、これらの作品が陶製である、つまりはやきもので出来ていることを思い起こさねばなりませんなあ。作者にすれば、敢えて割れる素材である陶を使うに至ったのであるとなるようです。元々は平面的な作品としてコラージュや版画を製作していたらしいのですけれどね。
分けてもコラージュ作品を入口にしていたらしく、そちらはそちらで見るべきものがあるのですけれど、思い至るのは根っからの陶工、陶芸家ではないのであるなということなのですよね。単に地域の美術館ということでしたら、いろいろな現代作家の作品を持ってきて展覧会を開催するのはままあるとして、ここは言わば陶芸の専門美術館であって、そこで個展が開かれることに「おや?」とも。ただし、根っから陶芸に携わった人ではなくとも、やきものを媒体として何かを問いかける可能性には、専門美術館なればこその着目度合があったのやもしれません。
ともあれ、「日常生活に溢れる大量の情報の儚さや、情報に埋没していく危うさ、恐ろしさを表そうとし」て「ゴミ」に着目した作家は、やきものの媒体にもさらに突っ込んだものを使い始めるのですな。展示解説に曰く、このように。
2000年代に入って使い始めた素材に溶融スラグがある。溶融スラグとは、廃棄物(ゴミ)を1400℃で焼成してできるガラス状の粉末。三島はこの溶融スラグをさらに細かくし、廃土と混ぜて使う。日常のゴミを高温焼成してできる溶融スラグと、工場からでる廃土を混ぜた土をつかって、新聞や雑誌などのゴミをつくりだす。
これまでに、世に溢れる廃棄物などを素材にオブジェを作り上げるようなアプローチのアート作品には出くわしたことはありますけれど、ゴミ由来の材料でもっても新たにゴミを表す作品を作り出すとは、いやはやこれ以上のインパクトがありましょうかね…。常々、体裁よく(といっては語弊があるかもながら)オブジェに設えた廃材アートを見たときに、とどのつまり、この作品もいつしかゴミにならざるを得ないのだろうなあ…てなふうにも思ったりしていたわけですが、三島の造り出したゴミはむしろ作品として残るのかもしれませんですしね。
と、うっかり見過ごすところでしたですが、受付の方に「屋外展示も見て行ってくださいね」と声をかけられて「どれどれ…」と。建物に取り巻れた人工池に新聞やらチラシやら散乱している、いわばゴミがとっちらかった風景が、夕日に染まった紅葉の木立と奇妙なコントラストを醸しておりましたよ。
美しいのか、そうでないのか。アートに接するときに抱く思いはそんな二者択一では表現しようもないものでありますね。でもって、ゴミが散乱する風景とは日常と隣り合わせにあるもので、いやでもそれを思い出さざるを得ない。アートの力でありましょうねえ。しかしまあ、思いもよらぬやきものに出くわした岐阜県現代陶芸美術館なのでありましたよ。