長崎市外海の出津集落をぶらりと歩いて、ド・ロ神父の事績をたどっておりますが、ド・ロ神父記念館を訪ねた後はその斜向かいへ。

 

 

「ド・ロ塀」と呼ばれる石積みに囲まれた建物群は「旧出津救助院」ということでして、出津集落の授産・福祉に努めたド・ロ神父が造ったもの。先に見た元の鰯網工場も、実は救助院の建物のひとつということになるのですな。ただ門の中を垣間見た限りでは、どうも土産物屋かお休み処か?てなふうでもありますねえ。

 

 

ともあれ、救助院ではどんな取り組みが展開されていたのか?このあたり、解説板にはこのようにありました。

 

救助院では、日記、算術などの学業を授け、製粉、機織、パン、そうめん、マカロニ、搾油などの技術を教えました。使用された機械器具はド・ロ神父がヨーロッパ諸国から購入したものです。

と、ここで思い出していただきたいのが長崎市遠藤周作文学館が隣接する道の駅の食堂でランチを食した折のこと。定食をたのむと「どろさまそうめん」食べ放題とありましたが、このご当地名物のそうめんこそがド・ロ神父により製造技術が伝授されたものということで。ただ、敷地内にはマカロニ工場なる建物が残されていることからして、小麦を原料にマカロニのみならずパスタ類を作り出す中で「そうめん」のようなものが出来た…ということなのかもしれませんです。なにせ素麺自体は古くから日本で製造されていたわけですしね。ちなみにここで製造されたパスタは、当時長崎に居留した外国人がマーケットであったようです。

 

 

マカロニ工場とされる建物は、今ではすっかり内部にあったであろう器材類が取り払われて、あたかも祈りの空間のような面持ちとなっておりましたですよ。それでも、「西室の土間には(西洋から取り寄せたマカロニやパスタを製造する)機器を固定したボルト跡が残って」いるとか。当時のマカロニ製造を偲ぶよすがとなっているようです。

 

 

で、敷地内では最も大きな建物が「授産場」でして、土産物屋のような建物(元来は修道院であったと)の奥に進んだところに入口がありました。「1階は広い一部屋の作業場、2階は、修道女の生活場所、礼拝堂として使用され」ていたそうです。

 

 

なるほど、1階の作業場はかなり広いですな。ところどころに解説板が設置されておりましたよ。

 

 

広い作業場は、いくつかの区画に分けて必要な機材が置かれていたようですな。左手上側では機織りが行われ、その奥はそうめんを干している。奥まったところの地下には大きな樽で醤油造りが、左手下ではかんころ(さつまいもを干した保存食らしい)作りが行われていたようすを描いてありますが、季節に応じて作るものは変わり、年間稼働していたようでありますよ。

 

 

ちなみにこちらはド・ロ神父自ら考案したという素麺延し機であると。なんにしても多才な人だったのですなあ。

 

 

ところで、「修道女の生活場所、礼拝堂」と説明されておりました2階の今のようすはこんなふう。で、その片隅にありした解説板を見るに及び、「そうであったか…」と。

 

 

ここに至るまでの説明には無かったように思いますが、ここではこの救助院をこのように説明しておりましたよ。

海難事故で夫や息子を失った未亡人の生活を支援するためにド・ロ神父が資材を投じたこの場所は日本で最古の授産施設と言われています。男手がなくても女性は自立して生きていかなければならないことを教えたのです。女性の教育に力を注がれたド・ロ神父の福祉活動の拠点です。

海難事故で働き手を失ったの女性に対する生活保障といったことでは、ずいぶんと前に北ドイツのリューベックで見て周った「Gänge und Höfe」を思い出したりもしますですが、あちらは海事組合が住居を工面してくれているも日々の生活はどんなふうにしていたのであるかなあと。こちら、出津の授産施設では物心両面で生活の糧を提供していたのでしょうし。

 

 

とまあ、そんなことを思い出したりもしつつひと廻りした出津救助院からは石壁の間を縫って下り、出津のバス停へ。とてもとても本数の少ない長崎新地ターミナル行きのバスをつかまえて、市内へ戻ったのでありました。も少し遅くまでおれば、海岸線と沈む夕日を見られたかもと思いつつ…。