陽気がすっかり秋めいてきたところで、久しぶりにトッパンホールのランチタイムコンサートへと足を運んでみたのですね。今回のテーマは「ドイツ・ロマン派の響き~ベートーヴェンからの解放~」と。シューマンブラームスの、それぞれヴァイオリン・ソナタが演奏されたのでありましたよ。

 

 

美術の世界では、後世にその名を留めることになる「〇〇派」といった呼ばれようが、ある時突然にまさしく突如として登場することがありますですね。評論家が揶揄して「ただの印象ではないか」と言ったことから「印象派」が、「原色の塗りたくりはまるで野獣のよう」と評されて「野獣派」がそれぞれ定着していったように。本人たちの側から「われらはシュルレアリストだけんね」と宣言してしまうようなこともありますな。

 

さりながら音楽の方はそうではなさそうですよね。ベートーヴェンまでが古典派ですよとか、シューベルトから後はみなロマン派なんだよねとか、「○○派」というのと作風の画期とは必ずしも唐突に出てくるのではないような。ベートーヴェンにしたってロマン的と言われる曲はあるわけですしね。つまりは音楽史はさまざまな作曲家たちが互いに影響しあいながら、常に新しい何かを求めて流れていくという(その流れ自体は美術の世界も同様なのでしょうけれど)。

 

で、ベートーヴェンの没後さほどでもない時期に活躍し始めた多くの作曲家たちにとっては、彼が生み出した音楽の高峰を前に「おれたちゃ、どうすりゃいいんだ…」とたじろぎ、すくんでしまってもいたようですなあ。有名な話としては、ブラームスがベートーヴェンの9曲に続くに恥じない新たな交響曲を作り出そうとするも、どうにも筆が進まずに何十年も苦吟することになってしまったとか。

 

先月くにたち市民芸術小ホールでベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタを聴いた演奏会の折、一般にヴァイオリン・ソナタと呼ばれる楽曲はそも「ピアノとヴァイオリンのためのソナタ」であって、当初はピアノがメインでヴァイオリンのおまけ付きといったところだったものを、ベートーヴェンが両者の対等感を打ち出してきた…てなことでありましたな。ある意味、新機軸であるわけながら、その後の両者対等たる潮流を作り上げたものが目の前にあって、さてシューマンもブラームスも「どうしたもんだろう…」というわけですなあ。

 

さりながら、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタは比較的若い時期に取り組まれて、(最後の1曲を除いて)およそ手掛けることをしなかった分野なのだとか。シューマンもブラームスもそこに活路を見出したのでもありましょうかね。つまり、ヴァイオリン・ソナタにおいてはベートーヴェンはまだまだ発展途中であったかもと。もしかして、この分野でベートーヴェンがやり残したことがあるのではないかと。

 

そうは言っても、シューマンは40歳を過ぎてから、ブラームスに至っては45歳くらいで送り出したヴァイオリン・ソナタは、やはり産みの苦しみがあったのでもあろうかと思うところです。で、そんな経緯(があったか無かったか)で作り出された曲はいずれも、感覚的に「ああ、ロマン派」と受け止めましたのは個人的な思い込みの故でもありますかね。思いのほか激情的な印象の残ったシューマン、これまた思いのほかのびやかなブラームス、そのどちらもべートーヴェンの印象とは異なる私的な感覚を宿しているような。ロマン派らしい一面であるのかもしれません。現役芸大生であるという若いヴァイオリニストながら、堂々とした演奏は「将来は大器?」てな予感も。

 

と、また藪から棒のような話になりますけれど、先日BBCのミステリー・ドラマ(「ブラウン神父」のスピンオフであるらしい「シスター探偵ボニファス」なるシリーズの一編)を見ておりますと、古人の名言でもありしょうか、「比較は喜びを奪う」というのが出てきました。アメリカ大統領 セオドア・ルーズベルトが言った言葉ということですけれど、「なるほどなあ」と思ったのですな。「比較」というのは本来、大きいか小さいか、重いか軽いかという違いの認識でしかないところながら、どうしても人間はそこに優劣を持ち込んでしまうような。

 

何をもって優とし、何をもって劣とするかは時と場合、はたまた人それぞれで異なるものの、どちらを優位と感じるかが一般化してしまっているものもあろうかと。結果、単純に違いを認識する域を超えて、優劣、良し悪しが語られたりもすることになり、そういう含みまで持った「比較」というのは属人的な喜びを奪う、減ずることになってしまうとは、想像しやすいところですしね。人間にはそうした性向があるからこそ、比較の結果生ずるナンバーワンよりもそれぞれにオンリーワンがいいだろうといった言説に繋がるように、どうも比較がぎすぎすする。勤め人が曝されている成果主義、業績主義など最たるものですし。

 

そんなふうに思い巡らしますと「比較」、こと人間が抱く優劣感覚ぶくみの比較はどうもなあ…と思ってしまうところなのですけれど、これが無くてはならない(であろう)こともあるのですよね。スポーツの勝ち負けもそうですし、科学の発見なども、比較した結果のもっともっと感を強く持つからこそ進んでいくわけで。やっと話をもどしますけれど、音楽の世界でもベートーヴェンという高い高いハードルがあるからこそ、これを超えてやろう意識が出てきて(実現するかどうかは別としてですが)、今回聴けたような楽曲が誕生したのは同様かと。

 

つまりは、比較の恩恵にも浴していたのであったか…と思うも、日ごろからなにかと「足るを知る」を信条として過ごす毎日、小ぢんまりとまとまってしまっている者にはとやかく言えた話ではないのかもしれませんです、はい。演奏会はランチタイム(通常30分)という割にはメガ盛りが提供されたような内容でありましたよ、満腹です(笑)。