短歌の作品集、すなわち「歌集」なるものを手にとることはほとんどありませなんだ。思い返して浮かんでくるのは、石川啄木、會津八一、吉野秀雄、そして俵万智くらいでしょうかね。
もちろん、古典中の古典、いわゆる「和歌」といった方が馴染みよい歌の数々には知っている作品はありますけれど、それを「歌集」というまとまりで読んだことはありませんし、だいたい「百人一首」の全体像でさえ、近年になって映画『ちはやふる』との関わりからようやっと見えてきたくらいですし。ま、それくらいに和歌、短歌に疎い状況であるわけです。
そんな短歌疎遠人間ながら、東京新聞に不定期連載されている『一首ものがたり』で見かけた歌に「!」と。こんな一首でありましたよ。
どうしても消去できない悲しみの隠しファイルが一個あります
たった三十一文字の言葉の羅列。さりながら、記憶の奥底から思い出さなくてもいいようなことをふいに蘇らせる力がここにはあったのですなあ。そんな隠しファイルは決して一個きりではなかったことも。
ここでは、PCに擬えた物理的な消去ができない(単にPCに詳しくないが故かもですが)憂いもありましょうけれど、それに加えて人為的なものとして、何度も消去しようと思いながらも、そのたびごとに消去を押せない…というもどかしさもまた。なんとも痛い、染み入り方をする一首であったわけなのですね。
てなことがあって、この作品を採録した歌集を手に取ってみるかと思ったところながら、歌集を買うという行動にまでは出ないのでして。なんとなれば、多くの作品が収録された歌集ともなりますと、その中にはどんな「化け物」(個々の読者の受け止めようなのですが)潜んでいるか、分からない。先の一首でさえ、人によっては触れたくないあたりに肉薄してしまったりにするわけで、もしかするとそれ以上に記憶や気持ちを鷲掴みにされて振り回されるような作品に出くわしてしまうかもしれない、それを蔵書する(歌集を買うとはそういうことですな)とはとても勇気が無いと思ったり。
考えてみれば、短歌疎遠人間とは申したものの、こうした怖れをある程度予見しているという点で、短歌が持っている(言葉が持っている、といってもいいかもしれません)力を大いに意識していることでもありましょうかね。
昨年、町田市民文学館で見た「57577展-訪れてくれたあなたの足跡と共に続いてゆく物語」で、リアルタイム現代の短歌に触れた折にも気になる作品はいくつかありましたですが、それでも歌集を手にとろうとまでは思わなかったところが、このほど食指を動かすことになった背景はそんなところでありまして、ともあれ図書館に貸出を求めた次第。実は、きっかけになった新聞記事は3カ月近くも前のものなのですけれど、近所の図書館の蔵書になかったもので、他館から取り寄せの手続きをして待ちに待ち、このほどようやって手元にやってきたのでありました。
歌集『パン屋のパンセ』。同人誌で活躍していた歌人・杉﨑恒夫の第2歌集ということですけれど、表紙帯にありますように作者は90歳であった(2009年に亡くなられた)と。上に引いた一首がPCに絡む言葉でできているというだけで、そこまで老年の方とは想像しておりませんでしたが、月並みな言い方をすればやはりみずみずしい感性の持ち主なのでありましょう。
卵立てと卵の息があっているしあわせってそんなものかも知れない
散髪をおえてみなみに吹かれゆく生きていることは皮膚からわかる
人が生きる幸せとか幸福とか言いますと、なにやら大仰になりがちですけれど、実際は日々のほんのわずかな、ともするとささいな気付きや出来事にほんわりとしたしあわせを感じることがありますですね。そのあたりの見出し方にも感性が現れておりますなあ。そして、しあわせとは反対の感情においてまた。
さみしくて見にきたひとの気持ちなど海はしつこく尋ねはしない
わずかなる誤解なのですイエローとレモンイエローの違いぐらいに
止まりたいところで止まるオルゴールそんなさよなら言えたらいいのに
最後の「別れ」を想う一首は、上に引いたPCデータの消去にもつながるイメージがありますが、もそっと決然と(しつつ、実はそうはいかない心持ちであろう)意気込みを伝えるのは、こちらでしょうか。
「愛」を強制終了します。データはすべて失われます。
ここでも題材はPCがらみ。作者が亡くなってから刊行された追悼歌集でもあるだけに、御子息が巻末に一文を寄せておりまして、それによるとどうもPCに長じていたわけではなさそう(1919年生まれという年齢的はそうでしょう、そうでしょう)ですが、それでも科学技術の進歩に歩調を合わせようとしていたところは理系の人なのかも。何せ長らく東京天文台(現在の国立天文台)に勤務されていた方であるということで。
国立天文台にはつい先ごろ訪ねたばかりですので、なにやら奇遇感が募るところでありますが、そんな理系の人?らしい作品として、こんなのはどうでしょうかね。
カウンターにぽつんと腰をかけている数直線の√2の位置
言葉はただぽつんと腰をかけている情景を告げるのみですけれど、おそらくは待ち人未だ来たらずなのであろうなあと。端からおひとり様として一番端に座るではない。かといって、一席目、二隻目とかっちりした位置に座っているわけでもない。まだ来てないけれど、もうひとり来るんだよねえと暗に周囲に判ってもらいたがっている気持ちが√2という中途半端さ(1.5までもいかない微妙さ)ににじみ出ておりますですね。よくまあ、√2を持ってきたものだと、感心しきりだったりしたものです。てな具合に、言葉の含みにしみじみ感じ入りながら味わった『パン屋のパンセ』なのでありました。