町田に行ってきたのでして…と先月に自由民権資料館やら西山美術館やらへ出かけたばかりながら、その時には町田市民文学館ことばらんどには立ち寄れなかったものですから。開催中なのは「57577」展、すなわち短歌にまつわる展示ですので、まあ、先月段階ではまだ『ちはやふる』を気にかけてもいなかったわけで…。
さりながら、『ちはやふる』が競技かるたの世界であって、創作とはあまり関わりのないところだったわけですが、本展の方はといえば、短歌は古いものばかりではなくして、現代ではこんな作品が作られてますよ、だからあなたも作ってみませんかと、創作を促すような内容なのでありました。
展示室内では、例えばこんなふうに短歌作品がデザイン的に壁面を飾っていたりするのですね。古式ゆかしく?短冊に墨書された作品がたくさん並べられているよりも、やはりこうした形になっていた方がついつい読んでしまうところではありましょうか。
ベランダに
あんたのパンツ
揺れるのを
見ていた夏が
乾かないの
あったこと
すべて日記に
つづるから
またへんなこと
覚えててごめんね
液体の
気持ちのままで
会うときは
心の中で「ごめん」と思う
これは伊藤紺という歌人/コピーライターであるという方の作品ですけれど、句ごとの分かち書きによる表示が多かったですかね。一方で、専業歌人(?)岡野大嗣の作品は区切れなく一行で。
散髪の帰りの道で会う風が風のなかではいちばん好きだ
そうだとは知らずに乗った地下鉄が外へ出てゆく瞬間がすき
忘れものがあなたを思い出すときにあなたは忘れものを思い出す
「夏ちょっと花火みえるよ、みにおいでよ」「行くよ、みえてもみえへんくても」
「区切れなく」は「句切れなく」ではないようですけれど、比較的全体が一文になっているが多いようですな。そんな表面的な部分をとっても、短歌の表現法には違い、個性があることが分かる気がしますですね。しかしそれにしても、短歌=和歌=古文…といった連想ばかりの者にとっては、いやはやなんとも「自由だなあ」とは思うところでして。
とまあ、かように自由度の高い(実は敷居の低い?)表現形態であるならば、誰にでも作れると思わせたところで、いささか釘をさすように?、展示は歌人・木下龍也による「天才による凡人のための短歌教室」のコーナーと移るのですな。
それにしても、「天才による凡人のための…」とはご挨拶ですなあと思うところながら、何分、作るのが簡単そうに思えてしまうだけに「まだまだ凡人」(教えてくれる方は天才)と謙虚に受け止めることも必要でありましょう。で、短歌作り心得の条ですけれど、それぞれに「言われてみれば、なるほどねえ」とも。
・助詞を抜くな。
・文字列をデザインせよ。
・たくさんつくれ。
・一首で遊び倒せ。
・きらきらひかるな。
・木下龍也を信じるな。
教えの一部はこんな具合ですけれど、やはりたくさん作ってみて、しかもひとつの作品を推敲することは何につけ、ものごとの上達の道ではありましょう。「きらきらひかるな」というのは、ただでさえ三十一文字という限りある文字数のなかに「だれでもつながりを予測できる言葉」、例えば「きらきらひかる」、「くるくるまわる」といった表現を入れ込んでしまうのは「もったいない」ということ。そして、最後にあれこれの教示を絶対視するなと。自分にとってはこうですよ、これでまあ、うまく行ってますよと言っても、真似をするのが目的でなくして、自分の短歌を作るには「最後は自分で」ということもまた必要。そうですよねえ。
で、お次はいよいよ「作ってみよう」となるわけですが、短歌作成補助教材?みたいなものがあるようですなあ。言葉遊びとして子供も楽しく作歌に入っていけるように。
ジェンガのように積んである木材ピースには、ひとつひとつに五文字や七文字の言葉が印字されていますので、これを組み合わせ、並べ変えてみましょうと。左手のグラスに入ったボールも文字が書かれていて、同様にグラスを入れ替えながら推敲してみることができるわけですね。最も簡便なカード・タイプはゲームとして市販もさているようですなあ。
そして、このワークスペースはかくも遊び心に溢れたもので取り囲まれているだけに、発表の形にも広がりがあるような気がしてしまうではありませんか。
とまあ、そんなこんなの展示を見た後には、文学館を後にしつつ歩く道すがら、頭の中で五文字、七文字がぐるぐるするような事態にも(笑)。そして、百首を覚えなくていい分、競技かるたよりは簡単かとも思ったり。もっとも入口は開放的ながら、その実、深い深い(闇のような?)世界に繋がってはいるのでしょうけれどね…。