分倍河原散歩の余禄として取り上げました『千早振る』ですけれど、よく知られた在原業平の和歌「ちはやふる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」が本来なわけですな。もっとも古文の苦手だった者としては、落語『千早振る』で長屋の八五郎からこの歌の意味するところを尋ねられたご隠居が展開する珍解釈、そちらの方が馴染みがあるのですなあ。

 

ところで、この「千早振る」は果たして「ちはやふる」であるのか、「ちはやぶる」であるのか。漫画&映画のタイトルは『ちはやふる』と濁りの無い表記ですけれど、映画の中で上白石萌音演じるかなちゃんの説明から、元々は「あらぶる」と類似する意味合いであることを考えますと、「ちはやぶる」と濁った方がそもそもの意を取りやすいのかも。Goo国語辞書にも「《動詞「ちはやぶ」の連体形から》勢いが激しい意」とありますし。

 

古い時代の文章には表記上濁点が無くても実は読むときに濁って読むてなことがままある(古文苦手の思い違いかもしれませんが…)でしょうから、もしかして表記上そのままに読むことが定着してしまって現在に至っているのかもしれませんですなあ。

 

とまあ、そんなことを前置きとしつつ、このたびの分倍河原散歩の歩き出しにあたりましては、この際だからと事前に映画版の『ちはやふる』を「上の句」、「下の句」、そして「結び」と三作一気見して臨んだものでありましたよ。

 

 

ストーリーとしては(言わずもがなながら)競技かるたに打ち込む高校生のお話。原作漫画では小学校時代から始まるようですが、映画ではもっぱら高校時代にフォーカスして幼少の頃は回想シーンとなっておりますな。で、主人公は当然にして綾瀬千早(広瀬すず)…ではあるのでしょうけれど、高校時代に特化した映画版を見る限り、どうも中心人物は真島太一(野村周平)のように思えてならないのですなあ(あくまで個人の見解です)。

 

またまた気付いてみれば(と、これまた誰もが気付いていることかもですが)主要登場人物の三人、綿谷新、真島太一、綾瀬千早を並べて、「あらた」、「たいち」、「ちはや」と名前がつながっているのですよね。そして、太一は中心にあって両者を結んでいるわけで、そんな判じ物めいたところからしても、太一こそ主人公にも思えたりするという。

 

とにもかくにも千早は競技かるた一直線であって、他には何も見えていない。新は自らが競技かるたに打ち込む意味を考えあぐねて思い悩んでいるところがあり、千早、新では話を中心的に展開できる存在にはなっておりませんですが、太一は自らの千早に対する思いであるとか、はたまた受験であるとか、そうした悩みを抱えつつも、要所要所で千早たちを軌道修正に導く役回りになっていますから、話を推進、展開させる役目はひとえに太一にかかっているわけで。

 

もちろん、その太一にもやさぐれる(?)局面を迎えるところがちゃあんと用意されていますけれど、そこはそれ、部活のメンバーが「仲間だろ、頼ってくれよ」と存在感を発揮することになる。ああ、青春!ではなかろうかと。

 

ただし、挫折があっても立ち直る機会が用意されている…というようには、現実はなっていないわけで、誰もが「あの頃」を思い出しつつも、「そうはいかない…」とも。さりながら、そんなふうに言っていたらなあ(詠嘆)ということもまた思わせるところが、この手のお話の成立する意義なのかもしれませんですね。

 

ところで「競技かるた」というものを、この映画を見るまで知らなかったわけではありませんが、かくもじっくり見てみれば、「競技かるた」とは格闘技であったのだなと今さらながらに思い至った次第でありますよ。