先日、東海道かわさき宿交流館を訪ねた折、展示室でいろいろ説明してくれたボランティアガイドの方(まあ、結構年配の方なわけですね)が「上の階で川崎生まれの詩人・佐藤惣之助の展示をやってますよ」と。ただ、こちらとしては「佐藤惣之助って?」となったものですから、「昔の流行歌の歌詞を書いたりもした人ですが、『青い背広で』とか知りませんか?…知らないかあ、今のひとは…」って、もはやこちらも相当ないい歳になってますけどね。

 

ただ、続けて「『湖畔の宿』なんかもしらないかなあ…」というので、「おお、それは知ってます!山のさびしい湖に~♪ですよね」と応えると、うれしそうにして「見て行ってください」と。こうなりますと、覗きにいかずばなりますまい。やっていたのは「川崎が生んだ詩人 佐藤惣之助」展でありました。

 

 

展示スペースを見回して、まず目をとめたのが「歌謡曲の歌詞」と題した展示パネル。なんでも「昭和8年前後からはじめた歌謡曲の作詞。その後亡くなるまでの10年足らずの間に500曲を超える作品を残しています」ということで、その中から代表的な曲が並べられてあるようです。

 

 

先に挙げられた曲のほか、『六甲おろし』や『赤城の子守歌』、『人生の並木路』、『人生劇場』なども佐藤惣之助が歌詞を手がけていたのですなあ。と、戦前の歌ばかりなのにこれらを知っているのは、ひとえに両親がいわゆる「懐メロ」好きでその手の歌番組を昔から目にする機会があったもので刷り込まれてしまったのですなあ。『湖畔の宿』などは母親が毎度カラオケで歌ってもいましたし、一方で『青い背広で』の方は、これを歌った藤山一郎を母親は「あまり好きじゃない」と言っていたりしたことを思い出したりも。ピンと来なかったのはそのせいでもあろうかと、折しも両親のところへ出向いたばかりで、記憶がよみがえってきたと申しましょうか(笑)。

 

と、個人的な思い出はともかくも、佐藤惣之助展をやっていた展示スペースと同じフロアには「東海道かわさき宿ゆかりの人物」を紹介するコーナーもありました。まあ、どこの郷土資料館にもあるようなものですけれどね。

 

 

最初に紹介されるのは徳川家康から多摩川の治水奉行に任命されたという小泉次太夫でして、多摩川下流域の右岸(川崎側)に二ヶ領用水を、左岸(東京側)に六郷用水を開削した人であるそうな。ちょいと前に訪ねた野火止用水も同様に、とにもかくにも新田開発には水利の確保が必要だったのですなあ。さらに川崎側の二ヶ領用水は、後に工業都市となる川崎にあって工業用水としても大いに利用されたそうでありますよ。

 

 

お次の松尾芭蕉とは、故郷伊賀へと帰る最後の旅の途次、「見送りにきた弟子たちと川崎宿のはずれの茶屋で別れを惜し」んだという程度(?)の関わりですので飛ばすとして、次の田中休愚も宿場の本陣の当主として「幕府に働きかけて六郷の渡しの渡船権を獲得し、財政難にあえぐ川崎宿を再建」した人、次の池上幸豊も新田開発に邁進して、「川崎の殖産興業の先駆者」と言われる人と触れるだけに。

 

 

話はやおら近代になりますが、やはりこの人には触れておきましょうねえ。「京浜工業地帯の生みの親」と紹介される浅野総一郎です。明治期、セメント事業を皮切りにさまざまな事業を手がけた浅野は川崎の沿岸部を埋め立てて工業用地とし、埋め立て地の中に京浜運河を開削して海上輸送の利便性を向上させたのが後の京浜工業地帯に繋がっているのですな。京浜運河については、昨年放送された『ブラタモリ』の「横浜・川崎~横浜・川崎は東京湾をどう進化させた?~」でも触れておりましたっけね。

 

その他、市長として功績のあった人あたりは(恐縮ながら)通り過ぎ、あとは川崎(現在の市域)に生まれた有名人として、陶芸家の濱田庄司、芸術家の岡本太郎、そして歌手の坂本九らが紹介されておりましたよ。ちなみに坂本九の「九」という名前は芸名でもなんでもない本当の名前だったのですなあ。ただし、読みとしては「ひさし」というらしいです(音読みで「九」は「久」に通ずるところからかも?とWikipediaに)。

 

ついでに「ゆかり」ということでは、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』に出てくる弥次さん喜多さんも。六郷の渡しを経て川崎宿への入り口、ちょうどお大師さん(川崎大師)への参詣道が分かれるところに「万年屋」という茶屋があったのだそうでして、『江戸名所図会』にも取り上げられるほど、名物「奈良茶飯」が有名であったと。もちろん、弥次喜多はこれがお目当てだったのですな。

 

 

さらについでにこの万年屋、久坂玄瑞と坂本龍馬が密談の場所として使ってもいたそうな。お江戸に入ってしまうちょいと手前というのが好ロケーションであったのかもしれませんですね。奈良茶飯を食したかどうかは分かりませんが…。