函館ベイエリアにある金森赤レンガ倉庫に向かう際、市電を十字街の電停で降りますと、コンビニの脇に何やら銅像のような。「あれはいったい誰であるか?」と近づいてみますれば、「ほお、こんなところにも、この人が?!」と。

 

 

台座の文字が大きいので遠目にも「坂本龍馬であったか!」と知れるのですなあ。となると、龍馬は箱館にまでもやって来ていたのか…と思ってしまうところがながら、この像は「坂本龍馬蝦夷地上陸祈念像」であるとか。つまり龍馬の上陸を「記念」するものではなくして、実際には叶わなかった龍馬の思いを「さぞや無念であったろう。蝦夷地に来たかったろうに」という「祈念」の像であるとは。思いのほどは手紙(慶応三年三月六日付)に記されているようで、像の右側に碑文として刻まれておりましたですよ。

 

小弟はエゾに渡らんとせし頃より新国を開き候は積年の思ひ一世の思ひ出に候間何卒一人でなりともやり付申べくと存居申候

で、龍馬が切望していたという蝦夷地行きですけれど、いったい龍馬は何をしたかったのかとなりますと、要するに「蝦夷地開拓」であったということでして、ずいぶんと乱暴な言い方をしてしまえば、後の榎本武揚と同じではなかろうと(この考えに至るプロセスはずいぶんと異なるものと思いますが)。

 

と、ここから先、坂本龍馬贔屓の方はご覧にならない方がよろしかろうと申し上げたうえで進みますが、元来へそ曲がりな者としては「何故に坂本龍馬がそれほどに注目されるのであるか」と思ったりするのですなあ。そりゃあ、敵対していた薩長を結び付け、明治維新に導いた立役者ではないかとなれば、そのとおりなのですけれど、果たして明治維新が本当に良かったのかどうか…。もちろん、徳川幕藩体制が続いておれば良かったというわけではありませんけれど。

 

もしも生きて龍馬にその後があったならば、明治維新もまたもそっと違ったかもしれませんですが、坂本龍馬という個人の活躍として、薩長の要人へ接触してこれを結び付けるといった点ではやりようもあったこと(もちろん簡単なことではなかったでしょうが)ながら、その後に藩閥政治が動き始めたとき、個の力でどれほどの軌道修正(あえてこういう言い方をしますけれど)が出来たかどうかは分からないですものね。まして、現実には龍馬は暗殺されてしまい、明治の世を見ることはなかったのですし。もっとも、その志半ばで倒れたというあたりも、人気を根強くする源なのではありましょう。

 

とまあ、ひとしきり大きなちゃちゃを入れたところで妄想を巡らしてみれば、薩長同盟成った後、戊辰戦争が起こってしまうのは仕方が無いとして、幕府憎しで突っ走る新政府にはひと言もふた言ももの申したかも。さすれば、場合によって龍馬の海援隊と榎本脱走艦隊の面々とが共に蝦夷地の開拓に精を出していたかもしれないとも。

 

NHKの正月時代劇『幕末相棒伝』では、呉越同舟の極みという意表を突いた話ながら、龍馬と新選組の土方がコンビを組むという状況がありましたですね。そこまでの具体的でなくとも、両者とも互いの「人物」に一目置くくらいのことは、敵味方の違いの中でもあったかもしれません。そうしたことが幕末にはいろいろと起こっていたでしょうから。そんな思いがあったとしたらもしかして、龍馬と榎本に土方を加えて蝦夷地開拓が行われ、引いては明治日本は違う形になっていたのかも…と、想像を逞しくしたりもできようかと。

 

ところで、実際に龍馬が蝦夷地へ渡ることは叶わなかったわけですが、龍馬の甥で海援隊士であった高松太郎(後に坂本直)は龍馬の意志を継いで箱館に渡り、坂本家子孫は北海道に移住した…ということが、祈念像脇の解説板にありました。龍馬の思い描いたことで継ぐべき意志はおそらく他にもいろいろあったとほ思うところながら、後々こうした受け継がけれ方をするということはそれだけ蝦夷地開拓への思いは強かったということになりましょうかね。

 

 

像と向かいあう形で通りの反対側には「北海道坂本龍馬記念館」なる施設があることに後から気付きましたけれど、入ってみれば龍馬の意志の受け継がれ方がもそっとよく分かったかもしれませんですね。