そうそう、函館・元町公園内で見かけたモニュメントをもう一つだけ。タイトルが「四天王像」とは、はたして…。

 

 

明治の世、「旧藩の遺産も恩恵もなくしたがってその束縛もな」かったという函館では「市民は自主的に市民精神を養い、経済の発展を計」ったそうですが、そんな中にあって函館の近代化を後押しした四人の人物が「四天王」と言われているようで。左側から今井市右衛門、平田文右衛門、渡邉熊四郎、平塚時蔵ということながら、如何せんどなたも存じ上げず…。

 

ただ、脇にありました解説板を見て「おお、この人が!」と思ったのは渡邉熊四郎でありますよ。説明書きには「明治二年金森洋物店を開きて世界各国の商品を普及、書店を開きて文化に尽くし海運業を計りて貿易に貢献…」とあって、函館を訪ねる観光客ならばおそらく一度は立ち寄るであろうスポットの生みの親だったのですなあ。

 

 

函館駅前と元町を結ぶ、ほぼ中間地点に赤レンガの倉庫がいくつか連なっておりまして、ガイドブックには「金森赤レンガ倉庫」と。この「金森」がまさしく渡邉熊四郎の事業との関わりを示しておりますね。実際、金森洋物店ならぬ金森洋物館という看板のある建物もありましたし。

 

 

外観は昔のまま、中は古いレンガのむき出して時代感を持たせながら、新しい施設に生まれ変わらせたのでありましょう。数々のショップ&レストランが入っていますので、旅行ガイドブックが触れないわけがありませんですなあ。ただ、個人的にはどんなお店が?てなことよりも、こうした展示パネル解説の方が興味を引かれますですね。この説明書きにも「函館四天王」という言葉が書かれてありましたですよ。

 

 

創業者の渡邉熊四郎が長崎から函館にやってきたのは24歳のとき。1863年と言いますから、まだ幕末の趨勢は必ずしも定まっていない段階だったはずですが、長崎にあって外国への夢を抱いていたのでしょうか、オランダや中国とは別の世界の窓口となった函館は熊四郎の関心を呼んだのかもしれません。

 

明治の世を迎えて1869年、洋物店(当初の建物は現在の市立郷土資料館とか)や船具店の事業を始めた熊四郎でしたが、「金森」という屋号の「金」は曲尺の記号から。かっちりとしてきちっとはかれる曲尺は「商売に駆け引き不要としていた」らしい熊四郎の律儀さの表れとか。「森」の方は、長崎で熊四郎が勤めていた薬屋「森屋」からとられたと。

 

 

今はベイエリアと呼ばれるこの場所に倉庫を建てたのは1887年ながら、1907年の大火で焼失、現在の建物は1909年(明治42年)に再建されたものだということです。

 

 

こちらは開業当時の金森洋物店のようす(というより「広告」と書いてありますな)ですけれど、「ハイカラ」という言葉が思い浮かぶところですなあ。もちろん、当時の函館はハイカラな構えの店が軒を連ねていたのでしょうけれど。

 

とまれ、金森の商売はさぞうまくいったのでしょう、1892年(明治25年)に熊四郎は約1年に及ぶ欧米漫遊の旅に出られるくらいでありますから。そうした中で目を留めて来たのでしょうか、1898年には函館麦酒醸造所を設立するのですな。さりながら、明治期にビール醸造は今の地ビール乱立を思い出すくらいにあちこちで手掛けられ、やがて大手でさえも大同合併に至るという状況。函館麦酒も6年ほどで廃業となってしまったようです。

 

まあ、そうした歴史を踏まえてであるのか、現在の函館でもクラフトビールは人気があるようで。市内にいくつかあるうち、ここ金森赤レンガ倉庫のうち、函館ヒストリープラザという建物には「函館ビヤホール」が入っておりましたよ。系列的には業界大手のサッポロビールが手掛ける店舗ですけれど、オリジナルとして「函館赤レンガビール」と「函館開拓使ビール」が提供されているとなれば、どれどれと。

 

 

外は相変わらずひんやりして必ずしもビール日和とも言えませんが、それでも函館の町を歩き回った後だけにのどこしひとしお。かくて函館の夜は更けていくのでありました。