このほどの群馬行きはかみつけの里、保渡田古墳群がお目当てだったわけでして、場合によっては日帰りできないこともないでしたですが、せっかくなので一泊。ホテル至近の美術館は夕方の18時まで開館しているようでしたので、高崎市タワー美術館で開催中の「比べて見せます!日本画の魅力」という展覧会に立ち寄ったのでありましたよ。

 

日本画には好んで描かれるモチーフがありますが、同じ題材でも時代や画家によってとらえや表現方法は異なります。…本展覧会では、画家が描き出そうとしたテーマや作品の特徴などのポイントを”見どころナンバーワン”として紹介しながら、同じモチーフにおける多様な表現を比較することで、収蔵作品の魅力に深く迫ります。

群馬・高崎には高崎市美術館と高崎市タワー美術館という、二つの美術館があるのですね。前者は洋モノ中心、後者が和モノ中心という住み分けがはっきりしておりまして、それぞれにそそられるところながら、時間の制約から二つにひとつの選択として今回は後者を訪ねることに。なんとなれば、上に引いてきたフライヤーの紹介文のとおり、云わば画題をテーマにした日本画リテラシー講座みたいなところでもあったものですから。まだまだ知らないことだらけの者にとってはありがたいわけなのでありますよ。

 

フライヤーの画像には江戸琳派のひとり、鈴木其一描くところの「桜」が使われておりますが、展示で見比べるポイントとなるテーマは、花鳥風月に関わる言葉が多く選び出されておりますな。曰く、梅、桜、鳥、月、そして富士山と。いかにも日本画の画題然としておるなあと感じるのは、なんとなあく日本人的感性とでもいうのが些かなりとも備わっているのでもありましょうか。

 

さりながら、ほんの少し深入りするだけで「ほお、そんな言葉が使われていたのであるか…」ということにも出くわしますなあ。例えば、松と竹と梅をまとめて「松竹梅」と言えばお目出たさが湧きおこるわけですが、松竹梅のそろい踏みを「歳寒三友」と称し、吉祥画の画題として夙に知られるところであったのだとか(個人的には、全く知りませんでしたが…)。同様の組み合わせ画題としては、「歳寒二雅」となると梅と竹で「高潔の象徴として文人画の好題」となっていたそうな。また「歳寒二友」となると梅と寒菊、一方で梅・竹・蘭・菊とが揃うと「四君子」と。梅だけはいずれにも入っていて、いわば梅は「吉祥画の中心」にあったということです。

 

で、梅を描き込んだ数点の作品を見比べますと、これまた解説にあった「花びらの意匠性の高さ」には「なるほどなあ」と。これまでは「ああ、梅だぁね」として漫然と眺めていたところながら、意匠性、即ち「円を並べても、花びらをつなげて描いても梅に見える」という点は梅に際立つ特徴のようで。もちろん写実的に描いてよし、図案化したデザイン(家紋の梅鉢紋なども)としてもよし、そんな中で単純化したデザインのひとつは「光琳梅」と称されたりもするそうな。

江戸時代の書物に「桜は花をえがき梅は木をえがく」という言葉があるように、独特の枝ぶりは梅の魅力のひとつ…

…とはまた、展示解説からの受け売りですけれど、これも「確かにそうだよなあ」と思ったり。今年も春先に一度、立川の昭和記念公園で梅見をしましたけれど、ただただ眺めやるだけでも結構枝ぶりが気になったりしたものです。絵師が作品として描き出すにあたっては、その枝ぶりにはさぞ工夫を凝らしたところでありましょうね。

 

と、梅の話ばかりになってますが、牡丹もかなり珍重されていたようですなあ(おそらくは現代よりもずっと)。単独で描かれることはもちろん、松と組み合わせて「富貴長年」、薔薇との組み合わせでは「富貴長春」という言われようがあるくらいだそうで。

 

ところで、牡丹をさほどに愛でたことの無い者にとっては、いかにも大振りな花(それだけに「花王」とも呼ばれるらしいですが、石鹸の名前はそこから採られたのでしょうか)だけに、こう言っては何ですがどっしり感を想像してしまっていたのですな。されど、それはどうやら思い込みに過ぎなかったのかも。ボリュームあるようにも見えるのは薄い花弁の重なりの結果でもあるようで、松尾敏男の『薄明』に描かれた牡丹を見て「そうであったか…」と思わずにはいられなかったものでありますよ。

 

なんだか梅と牡丹の話で長くなってしまい、気付きのあれこれを記しきれておりませんが、取り敢えずは日本画を見るときには「こういう視点もあるということを教えてもらった展覧会なのでありました。

 


 

どうも不在が続きますが、今回は月例のことで父親の通院介助に出かけます。出向く折には毎度、ささいなものながらも晩飯を作ってやったりしておりますので、またしてもお泊り故に明日(5/17)はお休みとして明後日(5/18)にはまた再び。どうぞ宜しくお願いいたします。