群馬県高崎市の保渡田古墳群を巡って最後に訪ねたのが、近辺の古墳三基の中で最古にして最古の井出二子山古墳でありました。最後に、と言いつつも、そもそも最寄りバス停からかみつけの里へと歩く道すがらですでに、二子山古墳は見えてくるのですけれど。

 

 

まあ、この方角から見たのでは前方後円墳らしさも、大きさも分かりにくいでしょうから、方向を変えてもう一枚。といっても、なかなかに収まりにくいところがあるのは古墳の常でして、後円部の上にちっこく見える人影でもって大きさをご想像いただければと。すっかり書き忘れておりましたが、墳丘長を比べてみれば二子山古墳が108mで最大、次いで薬師塚古墳の105m、八幡塚古墳の96mとなっているようです。

 

 

ちなみに、こちらの二子山古墳にも、八幡塚古墳で見かけた内濠にぽっかり浮かぶ中島がありましたなあ。古墳に関わる祭祀儀礼の場としては、墳丘本体に付属して造り出しを設けるケースのほか、近畿地方でも濠の中に中島を設ける例もあるようですが、そちらは方形なのだとか。ここのように円形の中島というのは「地方様式化したものであろう」と解説に。ヤマト王権に倣った前方後円墳としながらも、ちょいと独自色を出してみましたということなのかもです。

 

 

てなことを言いつつ墳丘の天辺へ上がってみますと、後円部の墳頂は整地されて、ここに石棺が埋葬されていたのですよという場所を表す解説版が置かれてありました。出土したのは、やっぱり舟形石棺でありますね。石棺の大きさは原寸ということです。

 

 

 

こちらの古墳もやはり盗掘されておりまして、蓋は割られた跡があり、石室内にあったであろう副葬品は持ち去られてしまっているようですが、解説に曰く「土中に混入していた小破片の遺物を大量に見出すことができた」として、現存していればさぞ煌びやかな品々であったことが想定されるとか。「なかには朝鮮半島製品もみられる」とは、これも渡来人が持ち込んだものでありましょうかね。

 

 

ところで、古墳自体はすでに全体像をみましたようにすっかり笹原のようになっておりまして、後円部から前方部を見下ろしますとこんな具合になっておりますな。

 

本古墳の整備方法は、発掘前の墳丘の形状をできるだけ変えない手法で行い、堀の部分のみ形を再現した。北方にある八幡塚古墳は築造時の姿に復元されているが、それと本古墳とを比べることで1500年間の時の流れを体感してほしい。この二子山古墳も往時は葺石をほどこした「石の山」であったが、次第に草木に覆われ、今のような形に変化したのである。

これに加えて、薬師塚古墳の今の姿をも鑑みると、なおのこと時の流れに思いを致すところかと。三基三様の古墳の姿は発掘に関わった人たちの思いを体現しておったのですなあ。

 

と、保渡田古墳群の大きな前方後円墳三基を巡ってきたわけですが、大きなものとはいえ「三基で古墳群?」とも。ですが、二子山古墳の近くにはかような解説板がありましたですよ。

 

 

「二子山古墳西側の墓域と極小石槨墓」として、「帆立貝形古墳、円墳、埴輪棺墓、極小石槨墓、土坑墓など、形や大きさ、埴輪の数・種類などに差があ」る中・小規模の古墳が、近辺にはたくさんあるということで。さればこその「古墳群」ということになりましょうかね。

 

ところで古墳時代の遺跡ではありませんですが、古墳群と最寄りバス停との間に戦国時代に関わる史跡があったのですなあ。「伝箕輪城主長野業盛之墓」と案内が出ておりました。長野業盛は「西群馬の武士団を統括した戦国武将で…上杉氏側に組したため、武田信玄から度々攻撃を受け」滅亡に至ったとか。

 

 

バスの時間の関係で立ち寄りはしませんでしたけれど、奥に見えるこんもりとした木立あたりでしょうか。ともあれ、古墳時代から1500年、戦国時代からは500年ほどの時が経って、今は農作業用(?)の軽トラが停まっている姿がしっくりくる、実にのどかな風景が広がっている「かみつけの里」なのでありました。