そういえば「かみつけの里博物館」の、そもエントランスに至る入口部分にはこんな展示がありましたなあ。

 

 

現代の馬に比べると小ぶりな体形の古代馬を実物大で示したもので、体高(前脚の先から肩の部分まで)まではおよそ130cm、サラブレッドより「ふた回り小さい」と説明されておりましたよ。古代馬に関しては、昨年、山梨県小淵沢にある「北杜市考古資料館」に解説がありましたですが、その中には「平安時代になると、朝廷直轄の「御牧」が甲斐・信濃・上野・武蔵の4国に設置され」たのだとも。

 

上野、古く言えば上毛野国、そして今で言えば群馬に「御牧」が設置されたというあたり、「群馬」の「群馬」たる由縁なのであるかと思ったりするところでして、しばらく前の『ブラタモリ』前橋編でも、前橋城の立地変遷をたどるパネル解説に際して、台地上に多くの馬の絵が描かれ、「おお、群馬!」などとやってましたっけねえ。

 

ただ、Wikipediaを参照しますと、この辺り、古くは上野国車郡という地名であったそうな。ここで「車」が意味したところは不明ながらも、律令のお達しによって地名は二文字表記でとなったときに、「車」を「群馬」としてこれで「くるま」と呼んでいたのであるとか。やはり二文字地名のお達しで「上毛野国」を「上野国」としたことから、てっきりこのお達しは長いのを短くする意図かと思いましたが、一文字の名称も二文字化していたのですなあ。ともあれ、「群馬」の当て字はやはり、当地が馬と大いに関わりある土地であったからとは言えましょう。で、その馬の出自について、展示解説ではこのように。

馬は古墳時代に日本列島にやってきた動物で、その飼育は渡来人によってもたらされた新しい技術の一つです。移動や運搬の役に立つことはもちろんですが、戦力にもなった馬は、王の力を象徴するものでした。

大きな前方後円墳を造った東国の王には馬という貴重なものがあったというわけですね。そして、馬を養うにあたっては渡来人との関わりも大いにあったということでしょうか。ふと思い出すのは、東京・府中市の「ふるさと府中歴史館」で見た展示解説ですかね。武蔵国(の、今の埼玉県内)に「高麗」という地名が残っていたりするのは渡来人との関わりですし、また同じく埼玉県の新座市という地名もまた朝鮮半島にあった「新羅」ゆかりであったのであると。

 

そんな次第ですので、当時、東山道の支線である東山道武蔵路が通じているも、大和王権の中央からすれば辺境も辺境だった武蔵国よりも、東山道のルート上で手前、つまりはやや中央に近い上野国に渡来人の往来、また定住があっても不思議ではないことになりますですねえ。

 

と、ようやく話はかみつけの里と渡来人のことに到達しましたですが、常設展示では「下芝谷ツ古墳とその周辺 海の向こうから来た人たち」なる一項が設けれられておりましたですよ。解説には、このようにあります。

高崎市の下芝谷ツ古墳は、土石流の下から発掘された二段築造の方墳であり、その上段は朝鮮半島北部の古墳と同じ技術〝積石手法”によって造られている。…谷ツ古墳は一辺20mの積石方墳。これより小さい積石方墳や軟質土器(朝鮮半島の影響が強い遺物)は、高崎市や渋川市でも発見され、渡来系の人々がこの地に点々と居住したことがわかる。谷ツ古墳の主は、三ツ寺の王に先進技術で協力した渡来集団の長なのかもしれない。

 

これは下芝谷ツ古墳の想定再現図でして、やはり日本の古墳とは印象がことなりますなあ。日本にも方墳はありますけれど、ここまで祭壇然とはしていないような気がしますし、敢えて言うならマヤやアステカのピラミッドの方を思い浮かべそうです。ですが、この古墳からはこのような出土品があるようですな。

 

 

金銅製の履き物だそうで、やはり朝鮮半島の影響が強いと考えられているものの、金メッキに透かし彫り、数々のガラス玉があしらわれた「造りや模様の組み合わせは半島にも例が無」のであるとか。復元したものの展示を見れば、実にまばゆいばかりではありませんか。

 

 

ただし、履き物といいつつも装飾過多であるため(ガラス玉などが当たるのでしょう)実用性はないようで、「儀礼用あるいは葬送用」に用いたと想像されているそうな。とまあ、こんなふうにかみつけの里あたりでは渡来人の痕跡が窺えるわけですが、関連して展示解説では『日本書紀』の記述にも触れてを紹介しておりましたなあ。

渡来人に関係する遺跡や遺物は近畿に多いが、東日本では榛名山の東麓に目立っている。8世紀に編まれた歴史書『日本書記』には、群馬県地域出身の上毛野氏が、朝鮮半島へ将軍として渡ったり、知識人を半島から呼び寄せる使者を果たしたとする記事がある。この文献記事と榛名山東麓の渡来系遺跡との関連は興味深いといえる。

まあ、『日本書紀』に記載されるところについては何度も眉唾的な印象を持っているわけですが、ここでは半島の関係は「あった」と受け取っておくことにいたしましょう。と、またしても古墳そのものの話が先送りになってしまいました。次には必ず登場しますですよ(笑)。