国指定遺跡である金生遺跡(きんせいいせき)を訪ねたものの、話はまた北杜市考古資料館の展示の方へ戻ってしまいましたですが、まあ、その延長で縄文時代よりも後のことに関わる展示にももそっと触れておこうかと。

 

「お泊りご勝手に」状態で自由に使わせてもらっているアパートは山梨県北杜市の小淵沢という町にあるのですが、予て気付いていたことながらJR中央本線・小淵沢駅前には、やおら馬の像があるのですなあ。そういえば、駅から八ヶ岳高原ラインを登っていきますと、あたりには乗馬体験ができるような施設がいくつもあるなあと。ですが、あまり深く考えてみることもなく…。

 

 

さりながら、北杜市近辺と馬の関わりにはきちんと歴史的な背景があったのとは、資料館の展示に教えられましたですよ。

平安時代になると、朝廷直轄の「御牧」が甲斐・信濃・上野・武蔵の4国に設置されます。甲斐国には「真衣野牧(まきののまき)」(武川町牧原周辺)・「柏前牧(かしわざきのまき)」(高根町樫山周辺・異説有)・「穂坂牧(ほさかのまき)」(韮崎市穂坂周辺)が置かれました。いずれも北杜市域とその周辺です。

このように展示解説にありますが、つまりは朝廷献上用の馬の牧場があったため、今でも馬の牧場が多いということのようで。平安時代からは時代を越えて戦国時代、武田騎馬軍団と恐れられたのもこうしたことが背景となってもいるのでしょうかね。ちなみに絵巻物としてよく知られた『信貴山縁起』には騎馬の乗馬風景として、このように。確かに馬の需要はあったということなのでしょうなあ。御牧ごと献上する馬の頭数も決められていたようですし。

 

 

ところで、武田騎馬軍団てなことまで引き合いに出しますと、戦場を駆け抜ける精悍な馬の姿を思い浮かべ、おそらく今では映画の合戦シーンなどでも当然のように?サラブレッドが使われているように想像しますが、御牧が営まれていた当時からサラブレッドがいたわけではありませんなあ。解説には「(サラブレッドなどの大型馬は)明治以降、移入、交配が進められたもの」とありました。

 

 

上の牧場の写真で見かけるような、今現在「これが馬だろう」と思う馬が黒いシルエットだとしますと、手前側に示されているのが当時の馬の姿であるようですな。解説の続きにはこのように。

(明治以降の移入・交配)それ以前の日本の馬は古墳時代に朝鮮半島を経由して導入された体高(地面から肩までの高さ)120cm程の蒙古系馬で、分類的には馬ではなく、ポニーとされます。

…ということは?!、勇猛な武田騎馬軍団もポニーの集団であったのか…。ずいぶんとイメージが揺らいでしまうところですが、ポニーといって遊園地で子供を乗せて歩く姿を思い浮かべるのは当たっておらないようで。解説はさらに続きます。

小型の馬とはいえ、強悍で、源頼朝が宇治川の戦いの際に佐々木高綱に与えた「生食(イケヅキ)」は人に喰らいつくほどの猛々しさから名付けられたとも言われています。

小さいというだけで侮ってはいけんのですなあ。もはや馬そのものが武器のようでもありそうです。荒々しい気性が知れ渡っていたこともまた騎馬軍団が恐れられた要因のひとつかもしれませんですね。