群馬県高崎市の保渡田古墳群には大きな前方後円墳が三基あるということで、八幡塚古墳に続いては薬師塚古墳の方へと。3つの中では最も遅く造られたものということでしたが、その場所らしきところに到達してみれば、そこにあるのはお寺さんなのでありましたよ。

 

 

かみつけの里博物館近くにあった周辺案内図を見ますと薬師塚古墳だけが点線で示されておりましたし、館内の解説にも「現在はお寺の境内になっています」とあって「嫌な予感」がしてはいましたが、門前から見る限り、古墳らしき形跡がまるで無いといった感じで。

 

 

ですので、やおら境内地に踏み込むのでなしにちと周囲を巡ってみることにしますと、裏手に廻ってみて「なるほど」と。このあたりの、何とはなし、高まりと見えるのが薬師塚古墳なのでしょうなあ。

 

 

とまあ、かような感触を得て、改めて西光寺の境内へとお邪魔いたしますと、本堂脇には「国指定史跡」を示す解説板が設置されていましたので、やはりここで間違いなしなのですな。

 

 

解説文に「この古墳は前方後円墳でかなり変形をうけているが…」とありますように傍目では単純にお寺さんであるかとしか思われない。さりながら、解説板の先にまで歩を進めますと、かつてそこは墳丘であったと思しき高まりの頂上へと向かう石段があるのですな。ただ、てっぺんにはやはりお寺の御堂のひとつと見える建物がある一方で、石段そばには「重要文化財 上野国保渡田薬師塚古墳出土品 保管所」とも。

 

 

さては、御堂の中には出土品が安置されているのであるか?とも思ってしまうところながら、出土品は御堂の脇にかように展示されておりましたですよ。薬師塚古墳から出た石棺、やはり舟形石棺です。

 

 

では御堂の方は?と言えば、古墳との関わりあることが「群馬の情報サイト We♡群馬」に紹介されていたのでありますよ。こんな具合です。

江戸時代に、この地から凝灰岩をくりぬいた舟形石棺が発掘され、その際に薬師如来像と称するものも発見されました。当時の高崎藩主が、薬師如来像を祀るために古墳上に薬師堂を建て、現在の地に西光寺を移転したとされています。

昔むかしの遺跡としてよりも仏像が出て来たこと自体を有難く感じて、そこが古代の墳墓であるとは知りながらも(?)薬師堂を建ててしまったということのようで。「古代の墳墓と知りながら?」と言いましたですが、以前読んだ『天皇陵 「聖域」の歴史学』の中には江戸時代にも結構、どの陵墓がどの天皇の陵墓であったかとを探る試みがあったようですのでね。まあ、江戸時代と言っても長いですし、皆がみな、平地の高まりを見て「古墳だ!」と感じたわけでもないのでしょうけれど、ある時期から尊王の意識がこうした試みにもつながったことはあったようです。もっとも群馬県の古墳はよもや天皇陵であったとなることはなかろうとは思いますが。

 

とまれ、そんなこんなの経緯からか、薬師塚古墳はお寺の境内として整備はされても、本来の姿を留めるには至らなかったのかも。ですが、すぐ近くにある保渡田八幡塚古墳、井出二子山古墳はどんな受け止め方をされていたのでしょうかね。その名に名残を留める通り、八幡様の塚であり、単に双子の高まりのある山と見られていたとか。翻ってみれば、ここは薬師塚と呼びならわされていたわけですしねえ。

 

そうそう、今回のタイトルに付けた「手つかず」というのは、「かなり変形している」というのに「何故?」かもしれませんですが、要するに葺石を再現している八幡塚古墳、遺跡として整えられている二子山古墳とは異なって、遺跡然としているかという点では「手つかず」であるなという次第。分かりにくかったかもですね(笑)。ということで、お次は井出二子山古墳へと向かうことにいたしましょう。