群馬県高崎市の「かみつけの里博物館」でもって、埴輪に関する企画展を覗いたあとは常設展示の展示室へ。博物館の周囲に大きな古墳を構える保渡田古墳群に関わる解説がメインとなりますですね。

 

 

まずは近辺の大きな古墳の位置関係を把握しておこうと思いますが、墳長100mを超える大きな前方後円墳が三基、コの字型に並んでいるのですなあ。

 

 

左下が二子山古墳、右側が八幡塚古墳、左上に薬師塚古墳がありまして、造られた時期の古さも古墳の大きさもここに挙げた順番で順々に造られ、徐々に小さくなったようでありますよ。では、こうした古墳を造営した東国豪族のようすについても見ていくことにいたしましょう。まずは、こんな解説から。

古墳時代には、榛名山東南麓の低地という低地はほとんど水田化されていた。…榛名山東南麓一帯は、火山災害時の状態が一瞬のできごとのように火山灰でパックされている。その堆積した火山灰を剥がすと、低地からは5世紀の広大な水田跡が発見される。

付近の山では、浅間山が現在進行形の活火山として知られておりますけれど、かつての榛名山は相当に荒ぶる山だったようですなあ。今でこそ山の上に榛名湖を抱えた、穏やかに風光明媚は観光地とはなっていますですが、中腹に伊香保温泉という一大温泉地を抱えているのが火山の名残りとも言えましょうか。その伊香保温泉への入り口にあたる渋川市(かみつけの里からすれば、山の向こう側になりますか)の金井東裏遺跡などでは、榛名山噴火の火砕流に飲み込まれた人骨が発見されたとして「日本のポンペイ」などとも言われていることは、以前、群馬県立歴史博物館で見たとおりでして。

 

そんな大噴火で生じた火山灰が東南麓のこのあたりがたっぷりと降り注いだようで、その火山灰パックを剥がしてみれば、かくも整然と区画された水田が広がっていたというのですから、豊かな富に恵まれて、王たる人の権力も大きかったものと想像されるところです。

 

 

広大な水田があるとなれば、そこで農耕を営むたくさんの人たちが住まってもいたわけですから、当然に集落跡なども見つかるのですな。これまた、火山灰パックの賜物として、瞬間冷凍したような保存状態が保たれることになったそうな。

 

 

さまざまな生活雑器も多数発掘されて、古墳時代の農民の暮らしを知る手掛かりとなっているようです。

 

 

 

ところで、こうした人々を束ねた豪族の長、王の館と考えられる遺跡も見つかったおるそうな。その「三ツ寺Ⅰ遺跡」は「日本ではじめて発掘された豪族の居館跡」なのだそうでありますよ。

 

 

昨年あたりも、大阪・高槻の安満遺跡や静岡の登呂遺跡といった弥生時代の遺跡を見てきたところですけれど、その延長にある古墳時代、なんだか戦国初期の大名の館(要するに天守を持つような城以前ですな)までもうひと息くらいの縄張りになっているでは…とは言いすぎかもですが、「もはや弥生ではない」感が強く印象付けられたものです。

 

解説に「古墳時代の豪族のイメージを一新した発見として広く知られている」というのも、頷けてしまいますですね。ちなみに、各地の豪族の館を比較してみるに、その「大小は、豪族が死後に埋葬された古墳の規模にも対応している」と。権威・権力のほどは実に分かりやすいものであったのですなあ。

 

ということで、古墳の話まで行かないうちに長くなってしまいましたので、その解説の方はそれぞれの古墳を実際に見て周りながら参照したいと考えておりますよ(笑)。