水沢
まで来てしまえば、伊香保はもう目と鼻の先ともいうところでして、
そのまま宿に行くには早過ぎると、向かったのはロープウェイでありました。
眺望を求めるにはいささかうすぼんやりした空模様だったのですが、
それでも先々の予報を考えると、そのとき以上を望めそうもなかったものですから。
(結果、そのとおりになってしまいました…)
ところで、伊香保の温泉街が観光案内図などで紹介されるときには
だいたいこんな形になりましょうかね。
これは、宿でもどこでも入手できる伊香保温泉観光協会のマップの一部です。
右手に石段街があり、左手中央あたりにバスターミナルとロープウェイの駅。
ロープウェイはまちの駅から見晴駅に登っていきますから、
当然に右手の石段街も下から上へと登る石段だと分かるわけですね。
が、実際の方角との関係はどうなんでしょう?
個人的な思い込みですが、地図は基本的に北が上と受け止めてしまいますので、
てっきり北側に向かって登る斜面、つまりは山の南斜面に位置して、
展望は南側に開けているのだろうと思っていたのでありますよ、今回行くまでは。
ところがどっこい、そうではなくて、開けているのは北側だったのでありまして、
この違和感は温泉街のマップを見る度に感じるところでありました。
とはいえ、一般的と同じように北が上にくるように先程の地図をひっくり返してみますと、
やっぱり伊香保神社が石段街の最下部にあるような気がしてしまいますから、
こうした実際の方角を犠牲にせざるを得なかったのでしょうねえ。
と、ひとしきり横道に逸れましたが、伊香保ロープウェイに乗ったというお話。
ここへ来て誰も彼も乗るわけでもないのか、かなりコンパクトな印象を受けます。
ですが、いざ乗ってみますと
眼前が開けているせいもありましょうけれど、ぐんぐん高度を上げて行く感じ。
上の見晴駅は標高932メートルとうことですが、ここはやはり高さよりも見晴らしがポイントでしょう。
ロープウェイ駅(物聞山の山頂になります)から歩くことしばしで展望台に到着。
いやあ、視界が開けてますですねえ。
ただし残念なことにはやはりうすぼんやりとした空気のせいで、
遠望できるはずの山々がみんな霞の向こう。
本来ならば、手すりに据え付けられた案内板の写真くらいの山並みが見えるはずなんですが…。
この案内板の写真がある分、反って「なんだかなぁ」感が増してしまうところです。
ただ反対側の山側を見ると、
ほんのちょこっと榛名山が頭を覗かせていて、どうやら歓迎の意を表してくれているような。
そんな山頂からの下りは、今度は遊歩道を降りて行きます。
先の地図の一番上のはじに伊香保リンクとあってその脇から点線がにょろりと出ておりましょう。
これが伊香保神社まで続く遊歩道…ですが、実際は「遊歩」の感じはあまり無くひたすらの下りです。
地図や案内には徒歩20分と登りも降りも同じように書かれていて、
ともすると平坦な道かと思ってしまうやもですが、伊香保神社の方から歩き始めると、
上の写真を逆にひたすら登っていくことになりますので、そのつもりで。
伊香保温泉と言えば石段街。
その天辺に位置するのが伊香保神社でありまして、
遊歩道でもって神社までくればそのまま石段街に突入!というのがメインルートでありましょう。
ですが、それはまた後のお楽しみということにして、すぐさま横道に入り、
ロープウェイの下の駅方向に戻っていきました。
すると、途中でふいに出くわしたのがこんな看板です。
「旧伊香保御用邸」。
脇にあった案内解説を引いてみるとしましょう。
伊香保温泉は、明治九年に来日した東京医学校(東大医学部)内科学教授ドイツ人医師ベルツ博士が、同一三年に発表した「日本鉱泉論」により、広く知られるところとなり、同博士が眺望の絶妙と空気の爽快を賞賛したこの地は、明治二三年に御料地として選出され、同二六年に離宮が建設された。
明治四四年夏、昭和天皇ほか二皇孫殿下の滞在をはじめ、多くの皇族方の来遊が続いたが、明治、大正、昭和と五十有余年続いた御用邸の歴史は、昭和二○年に幕を閉じた。
昭和二六年以降、この地は文部省に移管され、現在「群馬大学伊香保研修所」が置かれている。離宮は、昭和二七年七月二○日の火災により焼失したが、往時の面影は、正面玄関に置かれた沓脱石に今も残されている。
「ふ~ん」と思いつつも、目の前に広がる「雪の下」の群落の方が気になるというか。
こうしてたくさん咲いておりますと、何だか綺麗に見えますですねえ。
と、次の目的地のことも花の話から始めることにして、本日はこれにて…。