静岡・焼津を訪ねた…という話を続けておりますけれど、これまではもっぱら漁業やら海産物やらとったお話になっていたかと。さりながら、予て焼津に出かけようと考えておった理由は別にあるのでして…とは以前にも申しておりました。ようやっとそちらのお話に移ってまいるわけですが、そもそも焼津駅の駅前にはすでにこのような石碑が建てられてもいたのですな。小泉八雲の記念碑でありますよ。肖像はやはりお決まりの横顔ですなあ。

 

 

小泉八雲と言って思い浮かぶ日本の土地は、まずもって松江、そして熊本。加うるに神戸、東京となりましょうけれど、はて焼津とは?このあたりに気付かされたのは松江の小泉八雲記念館だったか、熊本の旧居であったか。ともあれ、それ以来ゆかりある焼津には一度…と思っていたのがようやく実現した次第ですが、では改めて八雲と焼津のゆかりのほどを、先に訪ねた焼津漁業資料館で触れていた説明文で見てみるといたしましょう。

文豪小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、明治30年の夏から37年に歿するまで、毎年のように城之腰の山口乙吉宅を下宿にして夏を送り、失われてゆく日本の美徳を、ここで見出し、「神様の町です」と口ぐせの様に云っては、焼津の町とその人情を愛した。

この説明に続けて、「ハーンが晩年の幾夏かを過ごした焼津の漁師町で朝夕海を眺めながら徘徊し、瞑想して得た」一文として「焼津にて」という随想からの一節が紹介されておりまして、駅前の記念碑に刻まれているのもまた、この「焼津にて」からの抜粋であったのですな。

 

明治以降、高官や著名人が多く海沿いに別荘を持ったことは、焼津からほど遠からぬ興津に井上馨西園寺公望ら別荘を構えていた例からも分かるわけですが、おそらくは気候温暖に加えて白砂青松、風光明媚といった要素があったと思います。さりながら、八雲の場合にはむしろ荒い波を求めたということがあったようですね。

 

明治になって日本にも海水浴のすすめといったものが広がるものの、温泉浴と似たようなもので海水に浸かることをもって良しとしていたようで。これに対して、八雲の場合は海で泳ぐことを目的としており、海らしい海には波があることを前提としていたような。

 

これは(と想像ですが)八雲が暖かく海に囲まれた地中海のレフカダ島(ラフカディオという名前の由縁)で生まれ、ほどなく離れ離れになるギリシア系の母親への思慕が強く残ったことなどと関わりがあるような気のするところです。八雲は生まれてほどなく、地中海とは打ってかわって寒冷なアイルランドへと移り住むことになりますが、松江自体は気に入っていたもののその寒さを嫌ったというのも、やはりこのあたりに背景があって、温かい土地=母親の面影を求めたように思えたりも。

 

一方、神戸に移った八雲は教職から記者に逆戻りするわけですけれど、どうも欧米偏重意識の強い居留地の外国人共同体には馴染めぬものがあったようで。やがて、東京に転じて帝大の教授になっても、結局のところ焼津という漁師町に見つけた(八雲が思い描くような)日本らしさが気に入って、それこそ急付くな都会から逃げ出すように夏のバカンスを焼津で過ごしたのでもありましょうか。

 

とはいえその死から100年以上が経って、焼津に八雲が愛した面影がどれほどあろうことか。取り敢えず、焼津港の船溜まりに続く川沿いの橋のたもとには「小泉八雲先生風詠の地」と刻まれた石碑が建てられてありました。

 

 

この碑のあるあたり、当時の焼津はもそっと海岸が近かったのではと想像しますけれど、解説板に曰く「焼津での八雲は、水泳が隙で当目(とうめ)や和田の海岸に泳ぎに行ったり浴衣に麦わら帽子、草履ばきといった姿でお寺や神社をたずねたりして過ごしていました」と。

 

ちょうど、この碑に面した通りは昔から「浜通り」と呼びならわされているようですが、「漁師や船元、魚を販売・加工する”さかなや゛が集中し、海とともに暮らしてきた焼津市民の古里といえる」のであるとか。碑の前に通りの入口にアーチが掛かって、往時の賑わいを想像するところながら、そのアーチはもう何年もほったらかしになっているようす。こんなところからも盛衰の流れが感じられますですね。

 

 

と、そんな浜通りをしばし進んでいきますと、かつて八雲が夏ごとに世話になった山口乙吉宅跡に至ります。今では「小泉八雲滞在の家跡」と案内があるばかりですけれど、浴衣姿の八雲は間違いなくこの浜通りを散歩したことでありましょう。

 

 

 

建物はすっかり様変わりして、なんでも当時の建物は明治村に移されて復元されているそうでありますよ。明治村にはかようなものもあるのですなあ(行ったことないもので…)。まあ、案内板にあった明治村での姿はこんな感じだそうです。

 

 

この二階でくつろいだ八雲が家主を「乙吉さ~ま」と呼ぶと、乙吉は乙吉で八雲を「先生さ~ま」と呼び返していたということで。なんとも、心安らぐ光景が思い浮かんでくるではありませんか。

 

ということで、町なかに八雲も軌跡を思い浮かべつつ、レンタサイクルを走らせて向かった次の目的地は「焼津小泉八雲記念館」ですので、八雲のお話はもう少し続くことになります…が、もはやそのお話は年を越すことになりそうです…。