松江ではまずもって遅くまで開館している島根県立美術館 を訪ねましたけれど、
実はもそっと興味のあったところを先送りにしておりまして。
そちらの方は朝8時半から始まるということでありましたので、翌日早々に出かけていって。
訪ねた先は「小泉八雲記念館」でありました。


小泉八雲記念館@松江


5月に天理ギャラリーでやっていた小泉八雲展 を興味深く見てきたところでしたので、
松江への出張が巡ってきたのはもっけの幸いと思っていたのですなあ。


ただ八雲の生涯を顧みてみれば、松江に住まったのはたったの1年数か月なのですね。
次の赴任地である熊本で5年近くも過ごしたことに比べると極めて短い。
それなのに小泉八雲といえばすぐに松江が思い浮かびますし、
また松江にはかように立派な記念館がある。

奥さんとの出会いも場所でもあって、滞在日数の長短では量れない結びつきが
松江にはあるようですね。


というわけで、記念館の展示は松江との関わりばかりでなく
八雲の生涯にわたるあれこれがあり、なかなかに充実しておりましたですよ。
入館時にこの記念館とお隣にある小泉八雲旧居、そして松江城にも入場できる3館共通券を
購入したのですけれど、受付の人いわく「すべて見てまわると1時間半はかかりますが…」と。
実際には記念館を隅々まで見ただけでゆうに1時間半以上かかりましたけれど(笑)。


そんなことで館内を見て回り、気付かされた点を少々備忘に記しておこうと思いますが、
まずもって「スピリチュアルなところに鋭敏だったかもしれない子ども」だったと

天理ギャラリーの展示で知ったわけながら、どうやら別の側面もあったようで。


と言いますのも、

幼くして両親と離れ、大伯母に預けられたハーンは13歳で神学校に入学するも
「同校の厳格な宗教教育と僧侶の偽善的なふるまいに反発を覚え、

多神教世界への共感が強まり、後にヴードゥー教や神道への共感的理解を

促すきっかけにもなる」てなことだそうで。


ところで、やがて親戚を頼ってアメリカに渡り、シンシナティで新聞記者の仕事に就いたハーン

混血女性であるマティーと知り合って結婚しますけれど、

ハーンは再話文学でたくさんの書物を残すように
元から「語り部」(が語ること)への憧憬があったのかもしれませんですね。


マティーはハーンの知らない世界をたくさん語ってくれる人物だったでしょうし、
そう考えると日本で出会った小泉セツもまた同様であろうかと。


ただし、マティーとの結婚は「異人種間婚姻を禁止したオハイオ州法に抵触」していたことで
ハーンはシンシナティ・エンクワイアラー社を解雇されてしまうのですね。
先ごろ見た映画「ニューヨーク眺めのいい部屋売ります」 では「全米50州のうち、

30州が黒人と白人の結婚を認めておらず、20州でも偏見はぬぐえなかったという時代」が

あったことに触れましたけれど、ハーンの頃は勤め先から解雇されても当然の違法行為で

あったのですなあ。

さて、そんなこんなの後にシンシナティからニューオリンズにやって来たハーンは
「フランス、アフリカ、ネイティヴアメリカンの文化が融合したクレオール文化の諸相を

街で取材し、文化の多様性に目を開かれ」ることになります。

先に出てきたヴードゥー教への関心というのはその延長線上にあるものでありましょう。


また、1884年から翌年にかけてに開かれたニューオリンズ万博では、

日本パビリオンの取材を通して日本の文物に接するともに日本人の知己も得、

古事記や神々のふるさと出雲を知ることになったとか。


日本に渡るのは1890年ですから、

それまでの間にマルティニークなどの異文化の地を取材しながらも
日本への思いを温めていたのかもしれませんですね。


という曲折を経て日本にたどりつき、松江にやってきたハーンですけれど、

それまでの主たる職業としては新聞記者であったわけですが、

日本で期待されたのは英語教師であったのですよね。


後に講義録の類いがまとめられるなど教え子たちからも慕われたようながら、

果たして教師としてはどうだったのかと思ったりもするところです。

ですが、教師としての姿勢として「Best English」よりも「Best Thinking」を評価したと聞けば、

ちゃあんと教師としての資質も持ち合わせていたのだなと思ったものでありますよ。


確かにハーン=八雲が松江に滞在したのは短い期間ながら、

そのことはともかくも松江の小泉八雲記念館は訪ね甲斐のある施設なのでありました。