ちょいと神田美土代町の交差点に近い天理ギャラリーを覗いたのでありますよ。

ちょうど「小泉八雲 ラフカディオ・ハーン」展が開催中だと知っていたものですから。


もう4年前になりますが、熊本市 を訪ねた折には

夏目漱石 とともに小泉八雲 の足跡もたどることにもなったものですから、

その後には熊本に転任する前にいた松江にも、

東京に出てきてから毎年のように訪ねたという焼津にも

折りあらば出かけてみようと思っていながら、時は過ぎという具合。


たまたまにもせよ訪ねた青梅で、かの有名な「雪女」の話はこの地域での聞き取りが元かと

知ったりするとふむふむと思ったりしていたわけです。


そんなですので、小泉八雲に関しては常々気にかけており、

天理ギャラリーという場所柄、小規模展示だろうとは想像するも出かけてみようかと

思っていたわけでして。


「小泉八雲 ラフカディオ・ハーン」展@天理ギャラリー

展示は、ギリシアでの誕生からアイルランド、イングランドを経てアメリカに落ち着き、

やがて新聞記者、もの書きになって日本へ派遣され、帰化して小泉八雲となった生涯を

コンパクトに示して、そのときどきの書簡や関連資料が並べられておりました。


そこで、今さらのように気付いたことを書きとどめておこうというわけですが、

まずもって日本人には小泉八雲の代表作と思われる「怪談」は単純に日本への興味、

しかも最初の赴任地が松江で出雲という神々の場所に近く、

またいかにも土着の伝承などがありしょうな場所であったから出てきたものかなと思えば、

これが必ずしもそうではないらしいのですな。


後年のエッセイなどに書かれたところによれば、

すでに4歳の頃から「お化けの夢や白昼夢を見るようになっていた」という。

個人的には4歳の頃の記憶はおよそありませんから、八雲にとっては

よほどのインパクトがあったのかもしれませんですね。


そんな元来、スピリチュアルなところに鋭敏だったかもしれない子どもに対して

乳母のキャサリンは妖精譚やケルトの口承文芸を話して聞かせたというのですから、

結構な影響と与えられたことではなかろうかと。


伝奇的なるものへのアプローチとはまた別の側面でも、

語り聞かせは八雲に大きな影響を与えたのでありましょう、

1884年に出版した最初期の著作「異邦文学残葉」からして再話文学であったということ、

その後にも「クレオール料理」(1885年)という本では731種もの料理レシピを

主婦たちから聞きとってまとめたものであったということで

見たこと聞いたことを再構築して自分の文章に仕立てるタイプの元が形成されたように

思うところでありますよ。


一方、日本への興味関心はかなり一気にヒートアップでしたものかと思うのは

例えば松江に到着した翌1891年の正月には羽織袴という純日本風ないでたちで

年始回りをしたとかいうエピソードからも窺える気がしていたのですけれど、

やはりそんな簡単なものではなかったようです。


お雇い外人仲間(?)の八雲(当時はまだへるん先生 でしょうけれど)と

チェンバレン、メイソンとの間では書簡のやりとりに際して

「振り子」という符牒が使われていたのだそうなのですね。


「振り子」が意味するところは「日本と日本人に対する気持ちの揺れ」であり、

書簡に「右へ振れた」とあれば共感と愛着が増したということ、

「左へ振れた」とあれば反感と幻滅が募ったということを示していたのだそうな。


日本滞在中には何かしらのことごとに右へ、左へ八雲の振り子も揺れていたのでしょう。

展示されていた八雲からチェンバレン宛の書簡には

「Pendulum to the right」といった言葉が確かに見て取れたりしましたですよ。


ところで、キャリア的に考えれば東京帝国大学講師に適うかと今なら考えてしまう八雲ですが、教え子の成績に関して記載したメモを見ると、成績優良者として

上田敏や土井晩翠といった名前が見えるのですな。


まあ、こうした日本の近代文学に関わる人たちを育てたり、

その講義録が後年まとめられて書籍化されたりしたところを見ると、

教育者としても八雲は一廉の人物であったといえましょうか。


そんなこんなの思いを抱きつつ見て回った天理ギャラリーの小泉八雲展なのでありました。