函館駅前から函館山の方へと進む市電は、十字街という電停(すぐ近くには坂本龍馬像があります)から先、左右に枝分かれして左方向は函館どっく行き、右方向は谷地頭行きとなりますな。これはその交差点部分、ちょうど谷地頭から来た市電が函館駅へと大きく曲がっていくところです。

 

 

ところでこの交差点には、おもちゃのガラガラを立てたような不思議な形状の塔?があるのですよね。雪国だけに路面が見えないほどに雪が積もった際、警察官がここから交通整理をしたとか?てな想像をしたりもしたですよ。

 

 

実際のところは「操車塔」というものだそうで、「昭和14年(1939)に、交差点での電車信号表示とポイントの切り替えを手動による遠隔操作をするために建てられたもの」ということです。どんどんと自動化が進んで行った中、この塔だけは平成7年(1995)6月まで使われていたそうな。「長い間ご苦労さま!」ということで形態保存されて、解説板も設置されたということでありますよ。

 

と、ここではそんな交差点である十字街の、谷地頭行きでひとつ先の電停・宝来町にやって来たのでありました。電停のある車道からほどなく、道は登り坂となって函館山へと続いていますが、お山はすっかり霧の中ですなあ。上り詰めて右へ入ると函館山ロープウェイの山麓駅があるものの、これでは全く眺望を期待できないでしょうなあ。

 

 

ちなみに坂の上、大きな赤い鳥居が見えていますですね。函館護国神社ですが、ここが箱館戦争で亡くなった「新政府側の」兵士を鎮魂のために造られた「招魂社」のその後ということで。このあたり、先に土方歳三関係の話でふれましたので、繰り返しはしませんが…。

 

この登り坂に至る手前には平坦な参道がまっすぐに伸びていますけれど、そこにはこれまたずいぶんと巨大な台座で高く持ち上げられた人物像が置かれてあるのでありますよ。これ、このように。

 

 

で「これはいったいだれ?」と思えば、高田屋嘉兵衛だったのですなあ。その名で真っ先に思い浮かべたのは蕎麦屋の「北前そば高田屋」でしたですが、「北前船を操り、蝦夷地と全国各地の交易を築いた江戸時代の廻船問屋・高田屋嘉平衛(ママ)をモチーフに」したことが同社HPにありましたので、あながち思い違いではなかったかと。ただ肖ったというだけですが…。

 

 

では、この高田屋嘉兵衛、どんな人物であったかを解説板の紹介から引いておくといたしましょう。

嘉兵衛は明和6年(1769年)に淡路島に生まれ、28歳のとき箱館に渡った。文政元年(1818年)に故郷に帰るまで、箱館を基地として造船・海運業・漁場経営などを手がけ、国後島・択捉島の航路や漁場を開発し、今日の函館発展の基礎を築き、大きな業績を残した。

とまあ、そういうことで大商人だったわけですけれど、帯刀が許されていることからも商売とは別になんらかの事績があるかと思えば、解説には続けてこのように。

さらに、日露国家間に起こった「ゴロヴニン事件」を民間の立場ながら無事解決に導いたことでも有名である。この像は、文化10年(1813年)、ロシア軍艦ディアナ号が、日本に捕らわれていたゴロヴニン船長を引き取るため、箱館に入港した際に立ち会った時の嘉兵衛の姿である。

これだけを見ると、あたかもロシア船の入港に立ち会ったと思ってしまうところながら、実のところはこれに先立って嘉兵衛は自らの船で国後島沖にあるときに拿捕されて、カムチャッカにまで連れ去れていたのであるとか。現地にあってゴロヴニン船長の救出交渉に携わり、引き取りのディアナ号に嘉兵衛も乗船して函館に帰ってきたというのですなあ。相変わらず?松前藩は何をやっていたのだか…と思うと同時に、「高田屋嘉兵衛は男でござる」ではありますまいか(一般には『仮名手本忠臣蔵』の「天川屋儀兵衛は男でござる」、転じて実在人物の「天野屋利兵衛は男でござる」ですけれど、ね)。

 

こうした関わりからでしょう、嘉兵衛像のすぐ近くには「日露友好の碑」というものも。こちらには嘉兵衛がカムチャッカに連行されたことにも触れており、裏面にはロシア語で書かれておりましたよ。

 

 

どうも草ぼうぼうの中に置かれて、今やあまり顧みられることもないのか…と思うと、ロシアとはお隣どうしであることにも少し思いを馳せてもいいのかなと。ただ、今現在はとても仲良くしにくい状況ですけれどね…。

 

 

ちなみに赤レンガ倉庫のほど近く、「箱館高田屋嘉兵衛資料館」に気付いたときには閉館後であって、翌日は定休日と尋ねられなかったのはいささか残念なことではありました。ま、高田屋嘉兵衛が蕎麦屋ではなかったことがはっきりしただけでも良しとしますか(思えば、江戸前寿司の発祥が華屋与兵衛にあることと、勝手に結びついてしまっていたのかもしれません。笑)。