かつて米軍立川基地であった跡地の一部に一昨年(2020年)、新たな大型商業施設が誕生したのですけれど、基地が返還されたのが1977年ですから、その後民生利用に供するまでどんだけ掛かったものか…。そんなことを思うにつけ、沖縄の方々は一日も早く返還してほしいであろうなあと。

 

まあそれはともあれ、この大型商業施設は「GREEN SPRINGS」てなネーミングがなされて、こじゃれた店を連ねる一方、その名を意識してか、2階部分にも広く屋外庭園があるのですなあ。

 

 

かような緑ごしに奥まったあたり、アトリウムという小さな展示スペースがあるのですけれど、通りかかってみて「ん?!」と。どこかで見たようなおじいさんの顔写真ではないかと思ったわけでありまして。

 


すぐにお気づきになられる方もおいででありましょう、日本人よりも?日本の自然を大事に考えてくれたC.W.ニコルさん(何故かしら「さん」付けが馴染むような…)ではありませんか。

 

 

果たしてこの場所では「森はよみがえる C.W.ニコルが遺した日本の未来」展という企画ものが開催中であったものですから、覗いてみることにしたのでありますよ。

 

 

ニコルさんの初来日は22歳のとき、きっかけは柔道であったようですよ。で、30歳のときに今度は空手を学ぶためとして東京西郊、東村山市の秋津に住まい、英語教師をしていたと。そこで雑木林の美しさに触れた…となると、ニコルさんを触発にしたのは「トトロの森」(八国山緑地、『となりのトトロ』では七国山)であったろうかと思ったり。

 

この再来日までの間には、エチオピアで国立公園の公園長を務めたりもしたようでして、そこで「森林破壊による影響が人々の生活を苦しめ、内線まで引き起こすのを目の当たりにした」ことが、日本の自然が余計に沁みた理由でもありましょう。

 

やがて信州の黒姫高原で自然に囲まれた生活を送るようになったニコルさん、周囲の山々が伐採によって丸裸にされるようすを目の当たりにし、動き出すのですな。ご本人曰く、「外国人だから出すぎないようガマンしてきた。しかし、もう黙っているのは罪悪に近い」と。

 

 

林野庁に働きかける一方で、自らもさまざまに活動していくわけです。何しろ、日本の森が危ういと。このことに日本人自身、あまり気付く機会がありませんですなあ。ちょいと前に昭和記念公園(ちなみにこちらも米軍基地跡ですな)の花みどり文化センターで見かけた「日本の生物多様性とその保全」展では、里山保全の必要性が説かれていましたけれど、原生林のことにはあまり触れられていなかったような。

 

 

ざっくり言って、日本の国土の67%は森林だそうな。そして、そのうちの43%がスギやヒノキなどを植林した人工林で、54%が二次林と呼ばれ、放置された里山等もこれに含まれると。里山喪失に伴って野生動物が棲みかを失う(ヒトの居住空間にも出没する)ことは昭和記念公園の展示にもありましたですが、翻って考えれば、原生林は本当にわずかになってしまっていて、原生林こそが野生動物たちの本来の棲みかなのではなかろうかと考えたりするわけです。

 

一方で、生物、動物たるヒトにとってはどうか。個人的には「(都会育ちで)自然貧乏だから…」てなことをつぶやいたりもするところながら、実際に「自然欠乏症候群」なるものがあろうとは考えてみることもなく…。

 

 

自然欠乏症候群(NDS=Nature Deficiency Syndrome)とは?こんな説明がありましたですよ。

子どもたちが自然に触れることもなく育った結果、落ちついて座っていられない、忍耐力が無い、ほかの子どもたちとうまくコミュニケーションがとれない、友だちもつくれないちうような、社会に適応できない症状

しばらく前に読んだ『「木」から辿る人類史』を思い返すまでもなく、ヒトという生き物の長い歴史の中では森、木々とともにあった時間が圧倒的に長いのですよねえ。木々と当たり前のように触れ合うことは、深くDNAにも刻み込まれていることなのかもしれません。となれば、それが欠乏気味になったら…ということも、眉唾とばかり言ってはいられないような気もするところです。

 

とまれ、さまざまに影響がありそうな森林を保全すること。ニコルさんが取り組んできたことを受けた活動は続いておるようですけれど、とまれ、そのニコルさんが残した最後のメッセージというのが印象的ですなあ。

 

願わくは
わたしは一本の木になりたい
暗闇の中に広く、深く根を張り
しっかりと土を抱えて
この地球を支える一本の木に

「森の祈り」と題した一文は、こんなふうに始まります。個人的にかつては植物を、動物目線で考えて「動けない植物よりも、動ける動物の方にこそ優位性がある」かのように考えておりましたけれど、植物は動物の遥か以前より存在する生物の大先輩で、なおかつ光合成という手段を得て動き回るまでもなく自立的に成育が可能という優れた特性を持っているのですよね。ニコルさんの思うところとは異なりはしましょうけれど、あくせくするより泰然自若と佇む姿に「わたしは木になりたい」と思う気持ちが湧いてもこようかと。

 

それはともかく、ヒトを野生動物と同じとまではいいませんけれど、ありのままの形で共生してきたありようを、ヒトが壊しまくったところを引き受けなくてはならない現状に来ていると気付いたならば、そのままにはできないところなのではなかろうかと思ったものでありますよ。