東京・立川に飛行場があった…といって、今でもあるといえばありますなあ。
陸上自衛隊立川駐屯地がその名残とも言えますし、

隣接して「ららぽーと立川立飛」となっているところは立飛、

すなわち立川飛行機株式会社が陸軍相手に飛行機を造っていた工場だったのでしょう。


近隣市に住んでいて知っているのはそのくらいでしたので、立川市歴史民俗資料館でもって
「“空の都”たちかわ-立川飛行場の歩み-」なる企画展が開催中と聞き及び、
出かけてきたのでありますよ。


企画展「”空の都”たちかわ―立川飛行場の歩み―」@立川市歴史民俗資料館

黎明期における日本の航空事情てなところは国立公文書館の展示 で以前にも見たですが、
立川飛行場 の開設は1922年(大正11年)、折しも第一次世界大戦でもって
飛行機の実用性が大いに認知されるとともに、軍隊としては首都防衛を重要視して
東京近郊に飛行場が必要と考えたことから、旧陸軍の軍用飛行場として造られたのですな。


当時、候補地としては小平、川越、相模原なども検討されたところながら、
結局のところは立川に決定。他に優った理由としては、鉄道(中央線)が利用できる利便性、
そして立ち退きが少なくて済むということも挙げられそうです。


今では昭和記念公園や広域防災基地、あるいはファーレ立川といった市街地にと
その表情を変えた大きな敷地の中に民家2軒と隔離病院が1軒立つばかりだった…

というのですから。


江戸から明治にかけては手つかずの原野だったようで、
桔梗、女郎花、山百合などの野花が名産品と言われたくらい。
東京の花屋で買ってもらっていたのだそうでありますよ。


そんなところへ持ち上がった飛行場建設。
ここの工事だけの話ではありませんが、朝鮮半島や中国系の人々などの労働力も投入され、
およそ5カ月の突貫工事で完成させたということです。


やがて岐阜の各務ヶ原(現存する飛行場では最も古い施設があるそうな)から
陸軍飛行第五大隊が移駐してきますが、立川駅周辺は歓迎する人であふれかえり、
大隊長が駅頭で挨拶をしたと言いますから、かような時代だったのですなあ。


とにもかくにも軍用でスタートした立川飛行場は翌1923年に発生した関東大震災で方向展開。
立川は損害が少なかったということで民用機の利用も可能とされるようになったという。
1929年(昭和4年)に日本航空輸送として初めて東京・大阪間に旅客便の定期運航が始まる際、
東京側の発着点がまさにこの立川飛行場であったそうです。


ちなみに運賃は新橋・大阪を鉄道(三等車)で移動すると6円4銭であるのに対して30円。
鉄道が約9時間かかったのに比べ、約2時間で到着できたということでありますよ。


と、いっときは東京の空の玄関を担った立川ですが、1931年に始まる満州事変を契機に
軍の航空利用が増えたことから民間航空は引っ越しを迫られた。
そうしたこともあって羽田に飛行場が開設されたわけですね。
1933年には立川は軍用基地に逆戻りしたのでありました。


その後の戦争を経て敗戦後には米軍に接収され、米軍立川基地となりますね。
もっぱら横田は戦闘機用、立川は物資輸送用とすみわけがあったようですけれど、
飛行機のジェット化が進んだ1955年、長い滑走路が必要になったのでしょう、
米軍は飛行場拡張の要求を国に出すのですが、地元住民は大反対。
砂川闘争として知られることになります。


結局、米軍は立川基地の拡張を断念して

徐々に機能を横田基地に移して、1969年には移転完了。
立川基地が全面返還されたのは1977年ということでして、
個人的な感覚ではそんなに昔のことではないように思われる一方で、
その頃は東京の東側に住んでいた者には「70年代後半まで立川に米軍がいたのか…」とも。


かつて1929年に大阪への旅客輸送が始まった頃でしょうか、
当時はまだ飛行機に乗るということが珍しかった時代ということもあり、
朝日新聞社が当代の歌人を招待して社有機に乗ってもらい、
空の上で即興の歌を詠んでもらうという(おふざけ)企画をやったそうな。


招待を受けて乗り込んだ一人が斎藤茂吉でして、いくつか詠んだ中のひとつは
「われより幾代か後の子孫ども今日のわが得意をけだし笑はむ」とにんまり顔が浮かびそう。

もっとも作家の佐藤春夫は朝日新聞の記事を読んだのでしょうか、
「もし茂吉の歌でなければおふざけでないよと言いたい」とコメントしたとか。


茂吉は、佐藤春夫が「おふざけでないよ」と言ってしまうくらいの浮かれ気分で歌を詠んだ。

飛行機に乗るわくわく感は今も昔もでありますねえ。

それだけに立川から空へと運んだのは何も軍用機ばかりではなかったということに、

いささかながらもホッとするようなエピソードではありました。