このGWの間の数日、山梨県北杜市小淵沢のアパートに行っていたわけですけれど、行きがけに途中、石和温泉駅からバスで山梨県立博物館に立ち寄ったのでありました。「伝える-災害の記憶」という企画展(会期は5/9で終了)を覗こうと思ったもので。
主に江戸期に発生した各種災害に関して、それを記録・記憶し伝えようとしたと窺える史料、主に瓦版や浮世絵などを集めたものですけれど、フライヤーに「あいおいニッセイ同和損保所蔵災害資料」とありますように、これも企業コレクションだったのでありますよ。
先に見たKDDIアートギャラリーのように、純然たる(?)美術作品を集めることがある一方で、損害保険の会社ならではといいますか、災害資料を収集する、とまあ、このようなケースもあるのですなあ。なんでも現在のあいおいニッセイ同和損保の源流のひとつである同和火災の社長さんがせっせと収集したそうな。
余談になりますが、あいおいニッセイ同和損保とはさぞかし合併を重ねたことであろうと推測し、同社HPの沿革を見たところ、始まりから現在に至るまでの間に12社もが紆余曲折を経て寄り集まった会社であったとは。これはこれで災害とはいわず、危機管理なのでありましょうけれど…。
ともあれ、災害の記憶を伝える史料の数々、興味深く眺めてきたのですけれど、上のフライヤーでお気付きになろりましょう、「鯰絵」もまたその一つでありますね。先日、町田市立国際版画美術館での「江戸の滑稽」展でも多くの鯰絵が展示されておりましたですが、「滑稽」という括りと「災害の記憶」という括りが重なる部分があるというのは、一概には言えないであろうものの、笑ってやり過ごす(しかない?)江戸の庶民のたくましさをここでも感じたものでありました。
ともあれ、鯰絵がたくさん作られるくらいに江戸期に大地震があったと同時に、江戸時代の大災害と言えば火事ですなあ。江戸では「振袖火事」と言われた明暦の大火がよく知られていて、これの事後処理としてあの!保科正之が江戸の町の復興に尽力しますけれど、それはまた別の話で。
とまれ「火事と喧嘩は江戸の華」などと言われるも、火事の被害は何も江戸の町に限ったことではありませんですね。これまたお江戸の心意気でありましょうか。ちなみに京都には「どんぐり焼け」と言われる天明の大火、「どんどん焼け」と言われた元治の大火があり、大坂は大坂で「妙知焼け」(享保の大火)、「大塩焼け」(天保八年の大塩平八郎の乱による)、「新町焼け」など、たびたびの大火に襲われていたようです。
こうした際に、テレビもラジオも無い時代、災害の情報をいち早く提供する役割を担ったのが瓦版でありますねえ。火元の特定から被災状況などなど、まずは第一報として不確定ながらも伝える際には詳細は追ってと記して、ここには続報もまた買ってもらおうとのたくましい商魂が見透かせもするところでありますね。
商売上手?という点では、被災したエリアの地図を載せるなどしたものを出して、「これを買って、遠方のご家族に送ればきっと安心してもらえます」てな触れ込みまでしておるようで。安否確認の手段にもなっていたのですかね。
また、「守札 大矢山日行寺」というお札にはこれまで見てきたところに通じる商魂と滑稽とが混じっているような。架空のお寺さんのお札然とした体裁で、六本の手にさまざまな法具を持つ愛染明王を模した姿が刷り込まれているのですが、文字を見れば「愛染明王」ならぬ「安全妙王」と。
蓮華座代わりの用水桶の上に座り、手には「水」と書かれた小旗や拍子木(火の用心、カチカチ)を持っていたりするという姿に、火災除けのご利益ありと思う向きがあるとは思えませんので、やはり洒落の世界でありましょうかね。
災害を目の当たりにして「笑い飛ばすとは不謹慎な!」とも言えましょうけれど、もはや笑うしかない、そういう心持ちに持っていかないと精神の不安定を抱えたままになってしまう。地震、火事、洪水、疫病などなど、数々の災害に曝される中で得た、江戸期の人たちの処世術でもあったろうかと思うところでありますよ。
ちなみに嘉永七年(1854年)に作られたという「諸国珍事末代記録鑑」なる刷り物。いわゆる見立て番付で災害の順位付けがなされておりますが、堂々、東の大関は「大坂地震津波」とあり、天下の関心事と後世の者なら考えるであろうペリー来航は西の大関に「浦賀美國舩」と記されておりますなあ。東の小結として「八代目團十郎病死」と出てくるあたりも含めて庶民感覚の反映なのであるかと、興味深く眺めたものなのでありました。