「57577」展@町田市文学館ことばらんどを見たついでに、国際版画美術館の方へも立ち寄ることに。先月やおら唐突に訪ねたときにはやっていなかった企画展「吉例浮世絵大公開!江戸の滑稽―幕末風刺画と大津絵―~田河水泡コレクションを中心に~」なるものが開催中だったものですから。

 

 

町田市立博物館が閉館になるにあたり、『のらくろ』:で知られる(といって、今や知らない人の方が多いのでしょうけれど)漫画家・田河水泡が集めた滑稽絵のコレクションが国際版画美術館へと移管されたもよう。これの蔵出し展でもあるわけですな。それにしても、ずいぶんたくさん集めたもので…。

 

まず最初のコーナーは歌川国芳から。フライヤーの右下にも配された「寄せ絵」と言われる分野は国芳の遊び心を大いにくすぐったようですなあ。国芳の寄せ絵で特に知られている中のひとつがこちらでしょうか。

 

 

展示解説に曰く「似た趣向の西洋の絵画の影響を指摘する向きもあ」ると聞けば、すぐさま思い浮かぶのはアルチンボルドですけれど、アルチンボルドは国芳よりも250年ほど前の時代を生きた人だけにその作品が日本に入ってもいたかも(版画化されて流布していたものとしても)…思えなくはありませんですが、もしも国芳がアルチンボルド作品を目の当たりにしていたとしたら、もっともっと思いがけない寄せ絵を生み出していたように思うところです。

 

さらに「みかけハこハゐが とんだいゝ人だ」といったタイトル付けも国芳ならでは。寄せ絵は寄せ絵として、国芳独自の滑稽世界を思い描いていたのでしょうなあ。この落書きじみたものもまたその類でありましょう。

 

華美がご法度とされ、何かと倹約倹約と幕府が唱えた時期、人気の役者絵を描いてはお縄を頂戴してしまうようなこともあったでしょうから、そうした中でかかる戯れ絵を描いて「ちっとも華美じゃあござんせん」と、にやつく国芳が思い浮かびますですね。とまれ国芳に限らず、お江戸の絵師たちの風刺精神は、表面的に笑いを生じさせる滑稽絵の中に、読み解くことでにやりとさせる要素を取り入れることで発揮されていたのでもありましょう。そこにはまた、ときどきの世相が映しこまれていたりもするという。

 

幕末安政の頃にお江戸の町を大きな地震が襲ったことは夙に知られたことですけれど、そうしたときに流行ったのが「鯰絵」でありますね。揺れの元とされた大鯰を鹿島神宮の神様が押さえつけるといった、地震除けの護符代わりにされたものもあれば、一方でこんな絵柄のものも。

 

 

タイトルは「鯰の切腹」、あろうことか、切腹したお腹からはざくざくと小判が飛び出してきている図でありますよ。なんでも「江戸では災害が起きると復興のためにお金持ちが寄付する文化があり、そのため災害は経済の循環、富の再配分とも捉えられていました」と展示解説に。幕末の時期、いかに大商人が貯め込んでいたかを思わせもするところでして、地震の結果として蓄財を放出せねばならなくなった商人を描いて「こんなことなら、さっさと使っておけばよかった…」と見せる絵もあったりするようですなあ。さながら江戸期の相互扶助精神の発露に思いを馳せるところでもあろうかと思ったりするところです。

 

ところで、江戸時代には地震ばかりでなくして、数々の流行り病もありましたですね。そんなときの憂さ晴らしとして滑稽絵の類が作られたりもしたようで、パッと見では大江山の鬼退治と思える一作も、実は見立て絵なのですなあ。

 

 

真ん中に大きく描かれたのは酒呑童子…かと思えば、この絵のタイトルは「はしか童子退治図」というもの。「はしかの流行で不景気に陥った業種(酒屋、船宿、湯屋、髪結い)を擬人化した者たち」が、源頼光と四天王よろしく、はしか童子を退治する場面というわけで。感染症の流行で、居酒屋、旅館、温泉などが大きな煽りをくらうのは昔も今も、でありますねえ。それでも、ただただ「アマビエ」にすがってしまうだけの現代人よりも、退治してやろうという心意気のある点でお江戸の人たちのたくましさを感じたりもするのでもありますよ。

 

ものごとがあれこれ進歩したとか、便利になったとか言いながら、根本的には果たして…てなことを考えたりも。ただの滑稽ではないのであるなと思い知る展覧会なのでありました。