…とまあ、夙に知られた「桜の名所」たる高遠城址公園を訪ねながらも、一向に花見の気分でもない…という状況(個人の見解です)にあったわけですが、丘のてっぺんにある城址公園から少々下ったところに高遠町歴史博物館なる施設がありましたので、立ち寄ってみたという次第です。

 

 

入ってみますと、城址公園の喧騒が嘘のように静かな(つまりは入館者がほとんどいない)館内。高遠まで来たのだからと、ついでにせよ何にせよ誰しも寄るものと思うのは大きな思い違いなのですな。ま、高遠だけの話ではありませんですが。

 

ともあれ、信州高遠の歴史をたどってみるといたしまして、高遠城のそもそもは諏訪氏一族の高遠頼継(諏訪頼継)が居城としていたと伝わるようで。本家筋と仲が良くなかったようで、甲斐の武田信玄が諏訪頼重を攻める際には、これに手を貸していたのだとか。結果、諏訪氏は滅亡するも、このとき信玄が連れ去った頼重の娘(諏訪御料人)との間に勝頼が生まれると諏訪姓を名乗らせたりもしましたなあ。

 

高遠の地は諏訪湖から甲斐府中(甲府)へと至る回廊と伊那谷に間にある高地に位置して、戦略上も無視できない場所であったように思うところながら、その後の紆余曲折は少々端折るといたしまして、家康が江戸幕府を開いて高遠藩が成立すると、保科正光が入るのですな。ここ、肝心です(笑)。

 

かつての大河ドラマ『江~姫たちの戦国~』が思い出されるところですが、徳川秀忠が側室との間にもうけた幸松を預かり、保科正之として育て上げたのが正光ということに。のちに三代将軍となった家光(正之の異母兄ですな)は同母弟の駿河大納言忠長と仲が悪かった(どうも両親の関わり方に問題があったような。春日局もどうか…ではありますが)代わりにか、正之とは信頼関係にあったようで、正之は幕閣で重きをおく存在ともなり、会津藩23万石の当主ともなるという。正之の子・正容の代には松平を名乗って親藩となり、幕末の松平容保にまで続く佐幕を貫く会津はここに端を発するわけで。

 

かつて猪苗代の土津神社(保科正之を祀る)を訪ねた折、境内で「保科正之を大河ドラマに!」といった立て看板を見かけましたけれど、この高遠町歴史博物館でも同様のものが目に留まりましたですよ。

 

ところで、保科が去ったあとの高遠には一時、鳥居家が入ってきますがのちに改易、しばし天領となった後に幕末まで続く内藤家が入りますな。そんな内藤時代の初め頃、やっかいな問題として起こったのがいわゆる「江島生島事件」というもの。大奥にあって将軍にも謁見のかなう重職にいた女中・江島(絵島)が質素倹約のご時世に歌舞伎役者と遊興に及んだことが咎められ、その後の二十数年、亡くなるまで高遠藩預かりとして「囲み屋敷」に軟禁状態で生涯を送ったというのですな。

 

 

これだとただ桜を撮ったようにしか見えませんですが、奥に見えている屋敷が博物館裏手に再現されている「絵島囲み屋敷」でありますよ。こういっては何ですが、わりと部屋数のある(昭和の庶民には贅沢な?)屋敷であるとも。さりながら、そもそも江島生島事件は幕閣内での勢力争いのとばっちりであったとも言われてますので、要するにスケープゴートにされてしまったのかもしれませんですなあ。何ともあわれな話ですけれど、預かりものに大事があってはいけんとして、預けられた側の内藤家としても気が気でない二十数年でありましたろう。

 

余談ですが、江戸から諏訪へと続く甲州街道の最初の宿場としてあるのが内藤新宿、今の新宿そのものですけれど、この宿場は高遠藩・内藤家の江戸中屋敷があった場所であることから内藤新宿という名が付いたのですな。そんな内藤家に関する古文書を、以前明治大学博物館で見たことがありましたですよ。

 

と、高遠の話から脱線気味となりましたですが、訪ねた土地、土地の歴史に触れる。これもまた楽しからずやと思うわけながら、桜を見に来た人たちがみなそういうつもりではないのだなあと改めて思い知ったような次第でありました。