三浦按針 のところで触れましたように、

鎖国政策を完成したのは三代将軍徳川家光のときであるわけですが、
こうしたことを書いております頃合いに何気なく歴史番組をふたつばかり見てみると
家光やその時代のことをやっていたりする…まったくもって折も折りでありましょうか。


ひとつは家光そのものに焦点を当てた内容でしたけれど、
比較的最近のところ(といっても2011年でしたが)で思い出されるのは大河ドラマ「江」ではないかと。


紆余曲折を経て、徳川二代将軍秀忠に嫁いだお江与(江、転じてこう呼ばれたらしい)は
秀忠の間に二人の息子をもうけ、これが後に家光、忠長となるわけですね。
(いずれも後の名前ですけれど、ここでは取り敢えずずっとこれで)


「江」の中でも確執のほどは取り上げられておりましたですが、
母であるお江与の元を離れ、乳母であるお福(後の春日局)に養育された兄・家光は
母とともに暮らす弟の忠長を羨みもし、恨みもしたろうと。


そうした感情の歪みは当然母子関係、ひいては父子関係にも陰を落としてしまうわけですね。

親の愛情を一身に浴びてのびのび育つ忠長こそ、次の将軍に相応しいてなことを
取り巻き含めて言いだすのも無理からぬことでもあったでしょうか。


ですが、こうした局面を一発打開するのがお福決死の大御所直訴であります。
年長である家光がないがしろにされているとの訴えを聞いた家康は
継嗣の問題は長幼を弁えるべしてなことを言って、秀忠の後継ぎは家光であることをはっきりさせる。


この辺りのこともあって、家光は実のところ家康と春日局の子ではないの?てな
俗説が生まれたりもするのでありましょう。


家光にしてみれば、兄貴なんだし当然とは思うものの、
家康のひと言がなければどうなっていたか分からないわけで、
祖父家康には常に敬意を払い、日光東照宮を今のような煌びやかな姿に大改築させたのも
家光であったそうな。


反対に父母への思いは捻じれたままであったのか、
その墓所である芝の増上寺とは別個に自らの墓所とすべく上野の寛永寺を建立する。
死んでも一緒に墓には入りたくないということですかね。


弟・忠長も周りに持ちあげられていたせいか、
「本当ならば自分が将軍に…」てな意識にもなってしまったのでしょう、
結局のところ不遜を咎められる形で改易となり、自刃して果てる。
とにもかくにも家族愛に恵まれない家光であったのですなあ。


ところが、あるときに家光がお忍びで目黒に鷹狩りに出て成就院という寺に立ち寄ったところ、
思いがけずも出されたさんまの味が忘れられず…とは違う話(落語「目黒のさんま」)ですので元へ戻して、
…寺に立ち寄ったところ相手が将軍とも知らずに「将軍にはもう一人弟がいて…」てなことを
漏れ聞いてしまったのだそうでありますよ。


どうやら秀忠にはお手付きで他にもう一人別に息子がいたらしいのですが、
「とんでもないこと!」と姉さん女房お江与の烈火の怒りから、
秀忠との親子対面も叶わぬままに何とか土井利勝らの計らいによって
信州高遠藩保科家にお預けとなる…これが長じて保科家を継ぎ、保科正之となっていた。


で、それとはなしに保科正之とやらの人となりを探らせてみれば、これが大層性格のよさそうな人物。
ようやっと家光には腹を割って話ができる身内が見つかったというところでありましょう。


こうなりますと、徐々に保科正之は幕閣として重きをなすようになっていく一方、
転封によって高遠から山形、そして会津へと移り、23万石の大大名となるのですね。


松平姓を許されて、葵の紋も使えることとなり、会津松平家の祖と言われるようになるわけですが、
当の本人はずっと保科を名乗り、養育の大恩ある保科家を立てていた…となると、
なかなか恩義に厚いできた人物であったように思えるところではないかと。


正之はもっぱら江戸にあって家光の補佐をしておりましたが、家光が亡くなるときには遺言によって
四代将軍となる家綱が11歳ということもあり、後見人とも副将軍ともなってもらうことを望んだのだとか。


やがて将軍家は家綱に代替わりしますけれど、そこへ起こった大騒動が明暦の大火。
浅草にあった西本願寺の江戸別院が築地へと移転する元になった大火事でありますね。


このときに江戸城の天守閣が焼け落ちてしまったのだそうでして、
将軍の周囲では城の顔であり、周囲を圧する立場を示すにも早急に天守の再建をとの声が上がるも、
これを一喝したのが保科正之であったのだそうですよ。


江戸じゅうが焼野原となり、民の疲弊この上ないときに城普請に金を掛けるとはとんでもない、
天下が定まった今となっては、天守などは遠くを眺める役にしか立たないとして、
幕府の米蔵なども大開放、庶民を労わったといいます。


他にも今後の火災に備え、延焼対策として道幅を広げるとかの対策を施し、
上野の広小路や両国橋はこの時に造られたものなのだそうです。


とまあ、保科正之という人は絵に描いたようないい人に思えてくるわけですが、
それがおよそ知られていない(自分が知らなかっただけか)のはやっぱり会津絡みとなりましょうか。


2013年の大河ドラマ「八重の桜」 を見ていて、結局のところ会津藩があそこまで一途に
幕府にお味方申し上げる元(幕府に尽くせよとの遺言)を作ったのがこの人ですから、
維新後の歴史の語られ方には余り登場させたくないところでもあろうかと。


2012年のGWに喜多方、猪苗代辺り(会津若松には寄らず…)に出掛けて、
ただただ「5月に桜が咲いている…」(福島では当然なのかもですが)と立ち寄った土津神社には
保科正之が祀られており、境内には(あまり目立たぬながら)「保科正之を大河ドラマに!」との貼り紙が。


その時は「この人だれ?」てなふうに思ったものの、
あれこれ知ってみれば大河ドラマの主人公にしたいとの気持ちも分からなくはない。
ですが、「八重の桜」があったばかりですから、会津絡みの話は当分作られないでしょうなあ。