また企画展示が変わったということで、
最寄りの資料館であるくにたち郷土文化館へ出かけてきたのでありますよ。
焼きもの関係の人間国宝と聞けば、濱田庄司くらいしか思い浮かばない(程度の知識である)ところながら、
国立市在住であった陶芸家にも人間国宝の方がおられたのですなあ。
「人間国宝 三浦小平二 旅と共に」という展示が開催中なのでありました。
佐渡の窯元の家に生まれた小平二は、「これからの陶芸家は…デッサンや造形力が必要」と父の助言を受け、
芸大の彫刻科に進むのですな。小平二が入学した1951年には、未だ芸大に陶芸を扱う学科は無かったようです。
そこで、友人と陶磁器研究会を作り、建築科の使い余しらしい赤煉瓦を使って学内に窯を造ったそうな。
この作品はその窯で生み出されたものとか。そればかりか、この陶研が発展することで、
11年後には陶芸科が芸大の正科になったとは、もしもこの人なかりせば…てな人なのでもあろうかと。
とまあ、そういう人なのではありますけれど、上のフライヤーに見える作品もそうですが、
なんとなくかわいい図柄というのもあるのですなあ。これは国立市(当時は国立町)にある幼稚園の
陶芸教室の講師を通じて、子供たちと関わったことも関係しておりましょうか。
いかにも子供に喜ばれそうな絵柄であるといいますか。それよりも、自転車を描くのに平面的で、
対抗して走るようすを上下反転して表すあたり、子供がやりそうなことに寄り添ってもいるような(笑)。
そんな三浦小平二はこの幼稚園を運営している女性を生涯の伴侶とし、
展覧会タイトルに「旅と共に」とありますように、夫人と連れ立って世界のあちこちを旅して、
小平二は創作のヒントを、夫人は教育活動のヒントを得ていたそうでありますよ。
二人が最初に海外旅行を考えた際の行き先はマイセンであったとは、焼きものの町だけにいかにも。
さりながら、マイセン行きは最少催行人員が集まらなかったとかでツアーキャンセルとなり、
「この際、焼きものにこだわらずに」と考え直して出かけた行き先というのが、ケニア、タンザニアとはこれまた
大胆な方針転換ではありませんですかね。
そこにはよほど心動かされるものがあったのでしょう、現地のマサイ族との出会いを通じて
こうした「マサイ・シリーズ」なる作品群も誕生するのですから。
ちなみに世界のあちこちに出かけたと言う三浦夫妻、マイセンのみならずドイツには結局足を踏み入れることは
かなったようですなあ。その時、マイセンに出かけていたら、全く違った作品世界が出来ていたかもです。
とまれ、小平二の究極の目標は「青磁」にあったようでして、
それには生地・佐渡の土が打ってつけと知ることになったのは後のお話のようです。
信楽の土を使って、佐渡なんてと思うのは、地元を小さいだけの田舎を見てしまう、
いかにも若い人らしいところだったかもですが、気付かされてみればと再認識したことでありましょう。
焼きもの素人からしますと、青磁などと言われれば何とも高尚なといいますか、
分かる人にしか分からない玄人好みといいますか、そんなもののように思えてしまうところながら、
三浦作品には近づきやすさがありますですね。
下の壺には、シルクロードを旅したときのスケッチから切り出したような模様が、
やはり何ともかわいらしく。かつてロープウェイや自転車を描いたお皿にも通じるところが感じられもするような。
そして、三浦作品の特徴としては「青磁に絵付けを施す」ということがあるようです。
先にも触れたように、青磁(ばかりではありませんが)と言うと「通」でなくては言葉にしてはいけない、
他の焼きもの、はたまた広く芸術系には押しなべてそういうところがあるわけですが、
分けてもそんな印象のあるところながら、絵付けされただけでずいぶんと趣きが変わるものであるなあと。
独特の肌の色合いはそのままながら、小さくとも絵が添えられることで各段に敷居が低くなるような。
そも絵付けされた青磁は三浦小平二オリジナルというわけではなくして、明の時代、景徳鎮窯でも
「成化豆彩」というものがあったそうで、それに倣って三浦は「豆彩」と称していたそうな。
こうした技法の下、旅を重ねた三浦らしい題材が、
かつての経験を偲ばせるかわいらしい絵柄でもって描き出されますと、
敷居が低くなったように感じるのもご理解いただけるところではありませんでしょうかね。
人間国宝の作品でとっつきやすさを感じるといっては
聞こえはよろしくないかもしれませんですが、この間、『わかりやすさの罪』に触れて、
「わかりやすい」ことは必ずしもよろしくいないこととは言えないわけで…てなことを言いましたのも、
具体的にはかようなことであると言えばいいでしょうか。
小規模ながらも、また焼きものを見る目を広げてくれる展覧会ではありましたですよ。