先日、映画「フロリダ・プロジェクト」のことを書きました折に、

しばらく前にEテレ「ドキュランドへようこそ」で放送された「イラン 天空の教室」を引き合いに出しましたですが、

あらためてこの番組のことを思い返してみようかと思っておりまして。

 

イラン南西部の山岳地帯に暮らす遊牧民の子供たちにも簡素な建物が学校があるのですけれど、

授業があるのは秋から春先まで。なんとなれば、夏場が近づくと羊たちを山脈を超えた高原地帯まで

家族総出で移動させるという大仕事があるため、学校には通えなくなるからであると。

 

「フロリダ・プロジェクト」では、ディズニーワールドという魔法の王国の塀の外である何の変哲もない空間を

見事に遊び場に変えてしまう子供たちが描かれていたわけですが、その「遊び」とやらに

一抹のやるせなさを感じた…というのは先に書いたとおりですけれど、

イランの遊牧民の子供たちもまた「何の変哲もない空間」どころか、

TVもゲームも、いわゆるおもちゃの類も一切ない中でどんどん「遊び」を作り出していくのだと思うのですね。

このあたり、昭和の子供たちも同じようなところがあったな…とは、これまた以前に触れたとおりです。

 

が、遊びはともかくとして勉強はということになりますが、彼らは実に向学心に溢れているのですよね。

一年中当たり前のように学校に通って新しい知識を得られるような環境でないからでしょうか、

学習意欲はおしなべて高そうに見えます。

 

遊牧の仕事があるために、中学以上の教育は町に出ないと受けられない。

それが叶わぬとなると、自学自習で試験を受け、より上位の教育を受けられる道を自ら切り開く若者もいますし。

また、将来の夢を尋ねれば、例えば「お医者さんになりたい」とはっきり答える子供がいる。

しかも、その理由は家族や周りのみんなが病気になったときに直してあげたいという、

現状の不都合を自らが何とかしたいという、非常に前向きな意識でもって語っているわけなのですね。

 

番組タイトルの「天空の教室」とは、本来ならば夏の間休校となるところながら、

あるときに教員(たったひとりで年齢の異なる子供たち全員をみています)が羊の移動の旅に同行しながら

子どもたちに授業をやろうと考えたところからのお話。あたかも北アルプスの雲ノ平が教室になったかのようです。

 

そこでは子供たちが一心に教師に向かい、課題に取り組んでいる。

おそらくは羊を連れてひたすら歩くという日々の中で、授業そのものが刺激でもありましょうし、

またそれを通じてこそ新しいこと知ることができる、つまり渇きを癒やす水のようなものでもありましょうか。

 

こうした姿を見るときに思うのは、本来的にヒトには「知りたい」があって、そのことには貪欲なのだということ。

ですが、状況が異なれば、知りたい分野を自らの好きな部分だけに絞り込んでそれを知る方法も自分で見つけられる、

そんな環境にあったとすると、もっと広くいろんなことを知ってほしいと思うのは「そちらの勝手」であって、

そこでは子供たちは特段の渇きを覚えることとて無いのかもしれません。

 

今、期せずして従来同様には学校に通えないという状況が現出していますけれど、

そこで学校に行きたいと子供たちが思うのは、「友達に会えない」「友達と遊べない」ということか、

あるいいは受験期に差し掛かっている子供であれば「勉強が追いつかない」てなことでもあろうかと。

およそ新たな知見に触れることを純粋に楽しみにしているというとは違うのではないでしょうかね。

(まあ、全員が全員と決めつけはしないものの)

 

本当は何かしら知らなかったことを知るのは楽しいということが前提なはずなのですが、

どこかで歯車が狂ってきて、ただの押し付けみたいなふうにもなってきてしまっているのかもですね。

ありきたりな言い方にはなりますが、天空の教室で学ぶ子供たちの目は実にきらきらしています。

日本に暮らす我々よりも、明らかな不便な、不自由な、制限のある暮らしとなれば、「大変だな」と思うところながら、

子供たちの可能性、その伸びしろは(不透明要素は日本よりも多いものの)大きく保たれているのかもしれないと

思ったりするのでありました。