公開時から気になっていたドキュメンタリー映画「365日のシンプルライフ」、

ようやっと見たのでありますよ。もっともEテレ「ドキュランドへようこそ」で先日放送されたものは

短縮版だったのではありますけれど。


365日のシンプルライフ [DVD]/ビクターエンタテインメント

ま、若者が思いつきで何かを始め、それを自撮りした類いのものですから、

映像作品としてどうかとなれば、それなりの域を出るものではないとは思いますが、

「とても真似はできんな」ということに果敢にトライする、若者らしいところでしょうか。

(ちと老人口調になりすぎてますが…)


趣味嗜好のおもむくまま、さまざまな「モノ」に囲まれた暮らしを送っていた26歳のペトリ。

ある時、なんだかモノだらけであることに思いを留めて、家にあるモノをすべて取り払ってみる、

そんなことを思い立つのですな。


持ち物の一切合財を貸し倉庫に持ち込み、部屋はすっかり入居者待ちのアパート状態に。

これをスタートとして、貸し倉庫に預けたモノの中から

一日にひとつだけモノを持ち出せるというルールで行こうということに。

一方で、買い物はいっさいしないというルールも。


持ち物すべてを預けることの徹底ぶりは、がらんとした部屋に素っ裸でいることで知れますが、

ペトリが暮らすヘルシンキは冬、なんとも無謀な計画であるかと思ったりするわけです。


話は初日にまず倉庫からひとつものを持ち出すところから始まりますので、

裸んぼうのペトリが夜陰に乗じ、途中で拾った新聞紙で前後を隠しながら

倉庫へ走る(もちろん裸足)という姿が映し出されるという。


この話からは、近年よく聞くようになった「断捨離」という言葉との関連を思うところながら、

あるものを削っていくということと、何も無いところから始めるというのとは

似て非なるものであるなと思ったりしたのでありますよ。


削っていく方向はいずれかの段階で(ヒトによってその段階はさまざまでしょうけれど)

「もう限界」となって踏みとどまれる(多かれ少なかれモノは残される)ことになりましょうけれど、

何も無いところからのスタートして、ひとつひとつモノが増える方向であると、

加わったモノ、それぞれに非常なありがたみを感じることにもなるわけで。


感覚的に「それが本当に適当なところであるか」は別として、

少しずつモノを手元に増やしていったペトリはやがて貸倉庫に通わなくなってしまうのですよね。

「これ以上、何が必要なのだ」と、いわば悟りの境地でもあるような。


もちろん無からのスタートですので、少しずつそろえていったものには

衣類が多いわけですが、それも結局のところ(文字通りの)ひと揃いあれば

それ以上あってもなくてもおんなじなんではないかてなふうに思うわけですなあ。


ペトリを同じことを試みる気にはなれませんし、それを他の方に進める気もありませんけれど、

家にモノがある状態の中から削っていくという発想よりも、

何も無い中で必要なものを探っていくという発想は意識の変化度合がより大きいように

思ったのでありますよ。


そうそう、ペトリが作ったルールに対して「グレーなんじゃね」というのが、食べ物の点。

自分では確かに買い物はしないものの、弟にたんと差し入れしてもったりしているわけで…。

といって、それをもって「なんだ、なんだ」というつもりもありませんですけれどね。

科学の実験ではありませんから、ルールを違えて導いた結論に意味は無い、

てなこともありませんし。


ともあれ、冬のヘルシンキを裸で倉庫に走り、何も無いがらんとした部屋では

持ち帰った一着のコートにくるまって、最初の一晩を明かしたペトリが

どうやら風邪をひかずにすんだことにホッとしつつ、

またまた「足るを知る」を考えたりしたのでありました。