大阪歴史博物館を訪ねて常設展示を見て回ったわけですが、

まず何はともあれ難波宮を中心とした古代に関わる展示を後は階下にくだり、

その後の大阪、近世・近代の大阪のようすをたどってみることに。

ですが、やおら江戸時代にまで話が飛ぶのはご容赦のほどを。

 

 

眼前にかような展示が開けるあたり、先にも申しましたように少々江戸東京博物館を思い出させるところ。

で、江戸と言われた時分の東京も商業は盛んであったわけですが、それ以上に大阪は

昔から商人の町と言われるところでして、その一端を展示から窺い知ろうというわけです。

 

 

こちらは堂島米市の賑わいですな。

全国から年貢米が集まってくる場所ともなれば、賑わいはむべなるかなですけれど、展示解説にはこのように。

蔵屋敷で発行された米切手を米仲買たちが売買する米市場である。現在でいう先物取引も行っており、投機的な性格を持っていた。ここで決まった米相場は飛脚などで各地に伝えられ、全国の米価や物価に大きな影響力があった。

「蔵屋敷で発行された…」てなことがさらりと書いてありますが、

「諸藩が年貢米や特産物を販売するために設けた施設」である蔵屋敷は「多いときで大坂に130余りあ」ったとか。

 

 

これは広島藩蔵屋敷の復元模型だそうですが、結構大きな施設ではなかろうかと。

これが大小あるにせよ130余りもあってしかもその役割として

参勤交代の途中に藩主が滞在したりし、経済的機能だけでなく政治的・文化的機能も持っていた」となれば、

これまたひとの交流、物流ともども活況を呈したことでありましょう。

ま、難波津は古代からの物流拠点ですものね。

 

また、米商いの中心地であった大坂は「銅吹所」という施設も集まっていたと。

「銅吹所」とは銅鉱山から持ち込まれた鉱石を「純度99%にまで精錬する」施設で、

「鎖国下の長崎貿易で最大の輸出品であった」という銅精錬は

大坂を代表する産業のひとつであったということです。

 

 

しかしながら、長堀にあったという住友の銅吹所(原産は別子銅山あたりでしょうかね)を

再現模型で見てみますと、化学工業という雰囲気ではありませんですなあ。

何かのんびりしているといいますか。

ただ、銅を扱う職人たちは体を壊す危険と隣あわせだったのではないでしょうか…。

 

とまれ、そんな江戸期の繁栄もあって(と、米と銅だけで語るわけではありませんが)

大坂は今につながる大阪となっていったのでありましょう。

将軍のおひざ元でも大名の城下町でもない、また天皇のおわすところでもない独自性を保ちつつ。

 

 

なんとも雑駁にたどってしまいましたですが、江戸から明治以降の大阪のことを想いながら、

大阪歴史博物館を後にしたのでありました。次にはまたちと古い時代の話に戻ります。