ということで、ようやっと大阪歴史博物館の中へ。

先にもお話しましたように訪ねた折は「関西文化の日」にあたっておりましたので、常設展は入場無料。

展示空間の使い方は異なりますが、常設展だけでも実にたっぷりした内容であることは、

江戸東京博物館を思い出すところですけれど、江戸東京とは歴史の長さが違いますなあ。

 

そも大阪歴史博物館は「難波宮のサイトミュージアム」という意味合いも持つ施設だけあって、

常設展示の始まりはこんな場所からになっていたのでありますよ。

 

後期難波宮大極殿

 

後期難波宮大極殿の中を再現して、左側にちらり見えているスクリーンに解説が流れているという。

そしてスクリーンの映像を見ておりますと、そのうちにスクリーン下の壁がぐぐぐっとせり上がってガラス窓となり、

眼下には難波宮跡の大極殿基壇が見下ろせる…という、演出があったりするのですなあ。

 

 

と、ここで難波宮の位置関係を改めて見ておこうかと。

古代にあった河内湖とはかくも大きな湖だったのですなあ。

大阪湾とは近くつながっていることから汽水湖だったのではないですかね。

 

 

丸印の付いたところに「法円坂遺跡(大阪歴史博物館)」とありますから、

河内湖と海を結ぶショートカットとして掘られた難波堀江に面して

上町台地の北端に難波宮が造られたことが分かります。

ちなみに難波堀江は仁徳天皇が掘削させたと伝わっているそうでありますよ。

 

 

 

そんな場所に築かれた前期難波宮の全体像はこんな感じであったとか。

大化の改新(645年)により蘇我氏勢力を排し即位した孝徳天皇が

新しい政治を行うために飛鳥から遷都したのが、この難波の地であったということです。

 

のちに、壬申の乱に勝利した天武天皇は後飛鳥岡本宮(飛鳥浄御原宮)で即位しますが、

天武十二年(683年)には難波を副都にしているそうですから、やはり重要な地だったのですなあ。

 

時は移って神亀三年(726年)、聖武天皇が改めて難波宮の造営に取り掛かります。

それが後期難波宮と呼ばれることになりますけれど、全体像はこのように。

前期に比べると手が込んだ造りになっているなと感じますね。

 

 

天平十六年(744年)にはここを都に定めるわけですが、

当時は平城宮、恭仁宮、紫香楽宮なども併存しているようでして、

例えば世に凶兆が現れたりすると元号を変えたり、宮を移ったりしていたのでしょうなあ。

 

延暦三年(784年)には「蝦蟇二万匹が四天王寺に入って消え」るという不穏な事件があり、

思わず?桓武天皇は長岡宮に遷都してしまったとか…。

このときまで残っていた難波宮は解体されて長岡宮に移築されたのだそうな。

 

ざっくりと難波宮のはじまりとおわりを見てきましたけれど、

フロアをくだれば大阪歴史博物館の常設展示はまだまだ続く。

下の階へと降りるエスカレータの踊り場からは大阪城もよく見えて、

ここでも上町台地という地形に思いを馳せることができるのですなあ。

 

 


 

と、いくつかの旅のお話がみな現在進行形という状況ながらこの3連休にちとでかけてまいります。

昨年のGWに四国を車で回ったのと同じ顔触れで今度は房総をぐるりというか、東京湾をぐるりというか、

そんな行程になる模様ですが、とりあえず連休明けにまたお目にかかりたく存じます。では。