ということで、大阪歴史博物館にやってまいりました…が、
この博物館前の広場もまた難波宮遺跡の一部だったのでありましょうね。
大きな高床式建物が再現されておりましたよ。
考古学的には(?)この場所は法円坂遺跡というようですけれど、
5世紀頃のこのあたりには「16棟以上の高床建物が整然と建てられて」いたそうな。
手前側にランダムに(見えるように)並ぶのは掘っ立て柱の跡でしょうかね。
再現図としては、こんな感じだったようです。
古墳時代のころはこんなにも海が近かったのですなあ。
それだけにかような解説文に接すると、「なるほどねえ」と思ったりするのでありますよ。
瀬戸内海の水運により大陸と結び、淀川や大和川をさかのぼって古代の政治の中心である大和や河内に直結する難波は、交通の要地でした。
難波津と呼ばれた港に近く、「物資の一大集積地として発達した」ということで、
立ち並ぶ建物は倉庫であったということです。
そして、「百舌鳥や古市に巨大な古墳を築いた大王が、
強大な権力を誇示するために作ったもの」とされるてなことを聞きますと、
歴史認識の点と点が結ばれるような気がしてきますなあ。
ところで、博物館前の広場にはこのような看板もありましたな。
「竹内街道・横大路(大道)」と書かれてありますが、
「日本書紀」の推古天皇二十一年(613年)条に「自難波至京置大道」とあって、
難波津から京(みやこ、この頃は京都でなくして飛鳥ですかな)まで
日本最古の官道が置かれたのだとか。1400年以上も前のことです。
道は難波宮跡公園あたりからまっすぐ南下して、
それが堺から百舌鳥古墳群のあたりを抜け東へと向かう竹内街道とぶつかる、
そういうルートになっていたというのですなあ。
いにしえの渡来人や遣隋使、遣唐使などもこの道を往来したであろうという
それほどまでに古い大阪を、難波宮のことを知らずにいたら考えてもみなかったことでしょう。
おっと、大阪歴史博物館前の広場をうろちょろして話が長くなりましたが、
次には館内の展示のお話をいたそうかと思っておりますよ。



