ピースおおさかで大阪大空襲 という現代史の一面に触れたわけですけれど、
続いては特別展の方へ。こちらは実に長い長いタイトルが付いておりまして、こんな具合。
ポーランド・グダンスク市 第二次世界大戦博物館展
「POLAND FIRST TO FIGHT 第二次世界大戦勃発の地・ポーランドの戦い」というものです。
とても大阪の歴史を巡る旅という目的に適うところでは無いものの、
せっかく(訪ねたときには「関西文化の日 」絡みで入場無料)ですから覗いてみたのでありますよ。
ご存じのように、第二次世界大戦の勃発は1939年9月1日、
ドイツがポーランドに侵攻したことにより始まるわけですけれど、
グダンスク(グダニスクとも、またドイツからするとダンツィヒと呼ばれてましたですね)は
まさに第二次大戦勃発の地とも言われるのだそうな。
フライヤーの裏面にはこんな説明がありました。
1939年9月1日、それまでポーランドへの友好訪問と称してグダンスク湾に停泊していたドイツ戦艦シュレスヴィヒ・ホルシュタインが何の布告もなくダンツィヒのポーランド軍駐屯地に激しい艦砲射撃を開始、このドイツによるポーランド侵攻によって第二次世界大戦の火ぶたが切られた。
そんなグダンスクだからこそでしょうか、第二次世界大戦博物館なる施設がありまして、
折しも2019年は大戦勃発から80年、そこで同館が世界60カ所でパネル展を開催することに。
その巡回先のひとつがピースおおさかであったということなのですな。
大戦の始まりを告げるドイツの電撃侵攻があってほどなく、
独ソ不可侵条約の密約と言われますが、9月17日には東部からソ連軍も侵入、
ポーランドはあっという間に分割され、占領下に置かれてしまったことは
歴史の授業にも出てくるところです。
が、徐々に戦場が拡大して行きますと、その後のポーランドがどうなったのかは
およそ聞かされないことになってしまいますですね。
当然にして平穏無事なわけもなく、ドイツ軍による虐殺は
550万人以上もの犠牲者を出したということで。
一方、西からドイツが来るからと東に逃げれば、ウクライナ民族主義者による虐殺があり、
またソ連の占領下では、エリートや知識人といったソ連占領を望まない社会層に対する排除があり、
強制労働などに駆り立てられたりしたのだと。
このあたり、以前(TV中継で)見た芝居「これはあなたのもの 1943-ウクライナ」 や、
以前読んだ「ダンスシューズで冬のシベリアへ」 (舞台はラトビアですが)などが
思い出されるところです。
後に知られるようになるカティンの森事件などもこれに類するものでありましょう。
パネル展示では、そのようなポーランドの状況が淡々と示され、
しかも第二次大戦が終結し、ポーランドという国が回復したように見えても
ソ連影響下に置かれた中では大量逮捕や虐殺といったことが無くなったわけでないことに
改めて目を向けさせてくれるわけです。
こうしたこともある中から、後にポーランド民主化の運動を担っていく独立自主管理労組、
「連帯」が生まれてくるわけですけれど、その誕生の地がまたグダンスクであったとは。
ところで、第二次大戦でナチス・ドイツに対して連合軍が敢行した大きな空挺作戦が
ありましたですね。「マーケット・ガーデン作戦」と言われるもので、
「遠すぎた橋」というタイトルで映画にもなりました。
その中でジーン・ハックマン が演じたのがポーランド第1独立落下傘旅団の
旅団長スタニスラウ・ソサボフスキー准将だったのですけれど、
ここになぜポーランド軍が登場するのであろうかと思っていたものなのですね。
それが今回の展示で「そうであったか…」と思ったところでして、
大戦が始まって亡命ポーランド軍が生まれ、やがて英軍に編入されていたのだそうな。
その数20万人以上とは、いやはや驚きましたなあ。
彼らは祖国回復のために戦ったわけですが、戦争終結がポーランドにかつての日々を
返してくれなかったことは歴史に見るとおりです。
先にピースおおさかの展示が東京にある戦争記憶に関する資料館とは違うと言いましたけれど、
「ひどいめにあったね」ということを忘れないという以上に
「繰り返さないためにはどうするか」をみんなで考えましょうという方向ですかね。
そのためには、「国」とか「民族」とか「宗教」とか、
あたかもそれが違うと別の側の人みたいに思ってしまうこと自体を
考え直すようでなくてならないのでは。
枠を作って、その中が良ければ外のことは関係ないてなふうなことを
「平和」と呼んだら、「そりゃ違う」と平和に言われそうですものね。

