さて、ペテルゴフ宮殿 を訪ねた後にはまたまたツアーバスでの移動、
車窓から風景はこんな寒々しい感じでして…。



しばらく走ってたどり着いたのは、ご存知ロシアの国民的詩人にあやかったプーシキンの町。
元々はツァールスコエ・セローと呼ばれていたところが、ソビエト政権下になって
「皇帝の町」という意味合いの名が適切でないと思われたか、
1937年にプーシキン の没後100年を記念して改名されたのだそうでありますよ。


ただ単にプーシキンの没後100年だからというだけで
やおら文豪の名が町に被さってしまったわけではさすがにないのでして、
同地に造られた貴族の子弟向け教育施設である「学習院」の一期生にプーシキンがいたのだとか。



こちらのアーチを持つ建物はプーシキンの学んだ学習院の建物の一部で、
近くには付属の礼拝堂とそれに隣接する公園の真ん中にはプーシキン像がありましたですよ。



ところで、アーチのある建物の右側におとぎの国めいた塗りを施した建物が見えてますが、
こちらがエカテリーナ宮殿なのでありますよ。



入口の門扉にはエカテリーナの「E」の文字があしらわれて、
なるほどいかにもエカテリーナ宮殿…なのですが、
実はこのエカテリーナは有名な2世でなくして1世の方なのだそうですな。


エカテリーナ1世の肖像@ペテルゴフ宮殿

これはペテルゴフ宮殿の方に飾られていたエカテリーナ1世の肖像画。

とてもふくよかな方ですので、このくらいの角度で見るのがほどほどかと。


洗濯女だったところをピョートル大帝に見初められて妃になり、

ピョートルの死に際しては貴族間の跡継ぎ擁立合戦で担ぎあげられ、

皇帝にまでなってしまったというエカテリーナ1世、

彼女が皇后時代に夏の離宮として建築が始まったのがこの宮殿ということで。


エカテリーナ宮殿

もっとも宮殿の今の姿は、皇帝エリザヴェータ(ピョートルとエカテリーナの娘)が

大幅に造り替えて「ロココ押し」にした結果であるようですけれど。



とりあえず中をガイドツアーで巡りますが、

個人的にはあまり宮殿内の贅をこらしたあれこれに対する興味は薄いのですよね…。



それでも、写真不可の「琥珀の間」は大したものだなあと思いましたですね。

何がといって「琥珀がきれい」ということ以上に「よくまあ、これを修復したなあ」と。


もともと部屋を飾っていた琥珀の壁面装飾やらはナチスドイツによって持ち出され、

ケーニヒスベルク(当時ドイツ領、現在はロシア領カリーニングラード)に運び込まれるも

英空軍の空爆にあって破壊された…とWikipediaにはありまして、

琥珀の間に関して視覚的に頼るべき資料があまり残されていないという中で

修復はまさに手探り状態であったとか。


また、琥珀の産地たるバルト三国がかつてはロシア領内であったのが、

今はそれぞれ別の国。琥珀の入手も簡単ではなかったようです。


とまれ、色づかいをそれぞれに変えてあったりする部屋々々などを見て回るなかで、

瞬間的にもぐおっと気分の高揚を感じたのが、この部屋でありますよ。


エカテリーナ宮殿謁見の間

何ゆえにさほどの盛り上がりを見せたのかと申しますれば、

装飾がきらびやかだからということではなくしてですね、

1791年、シベリアを横断してたどり着いた大黒屋光太夫

時の皇帝エカテリーナ2世に拝謁を許され、日本への帰国を願い出たのが

まさにこの場所であるか…と、いっとき感慨無量になったわけでして。


ただ頭に浮かんだ光太夫の顔が緒形拳になってしまっていたのは

映画「おろしや国酔夢譚」 のせいですが(笑)。



ちなみに、謁見の間のひとつ奥の部屋では

子供たち向けのダンス教室?が行われていましたですよ。

こういうところで踊るというのは雰囲気出るでしょうなあ。


この子供たちの中には、将来のエフゲニーやらタチヤーナやらがいるかもしれん…と思うも、

「19世紀じゃないんだから」と一人ぼけ突っ込みするエカテリーナ宮殿なのでありました。