ホテルを出発したツアーバスは寒々しいサンクトペテルブルクの郊外を走り抜け、
ペテルゴフの町にたどり着いたのでありますよ。
ペテルゴフ、アルファベットで書けば「Peterhof」となってドイツ語っぽいですよね。
だいたいサンクトペテルブルクという都市名からしてドイツ語由来なわけですが、
第一次大戦でドイツと敵対するやペトログラードと名前が変わり、
革命後にはのソヴィエト政権によってレニングラードとまた変えられたところ、
ソ連崩壊後の住民投票によってサンクトペテルブルクに戻されることになったとか。
ペテルゴフの町の名も第二次大戦時に一度は変更されるも、
やはり住民投票の結果としてペテルゴフに戻ったようでありますよ。
とまれ、そのペテルゴフの町で最も有名な場所がペテルゴフ宮殿、
「ピョートル大帝夏の宮殿」という方が一般的なのかもしれませんですね。
観光的には噴水を多用した庭園の散策がポイントのようですけれど、
例年、あちらこちらの噴水が噴き出すのは5月初旬ということで。
まあ、庭園のようすはこんな具合ですのでねえ。
だいたいこの場所は「ピョートル大帝夏の宮殿」と言われるように夏向けの離宮なわけで、
噴水で目を楽しませる必要が冬(一応、4月ではありますが)には無いのですものね。
ところで、夏には噴水が飛び交うはずのこの水路ですが、
左手の方にずうっと伸びたその先に実は…海があるのでありますよ。
フィンランド湾です(といって、写真では丘のようにも見えてしまうものと思いますけれど)。
ご存知のように、長らくロシア帝国の首都であったモスクワは大地の真ん中ですね。
大きな川を渡り継いでいくことで海に出ることはできるとしても、難儀なことです。
ピョートル大帝は西欧に倣い、西欧に負けることのない国を作りたかったことから、
それまで海辺に広がる湿地という、決して条件の良くないところに町を作ったのですな。
ひとえに海があり、港をつくることができたからでもありましょうか。
分けてもペテルゴフはもう海が目と鼻の先という土地柄、
ピョートルがここに夏の離宮を設けたのも頷けるような気がするところです。
というところで宮殿の中へと足を運ぶわけですが、
内装やら装飾品やらが豪勢であるのはいずこの宮殿も同じですが、
ここの(というよりロシアの、というべきか)印象(外壁も同様ですが)は
どうも「お菓子」っぽい気がするのですなあ。
とまあ、個人的にはお菓子のようなというか、ケーキのようなというか、
そんな外観・内装を見て回り、「1711年に造られたのかあ…」てな思いにふけるわけですが、
実のところはすっかり元のとおりに再建されたものであったのですなあ。
これは展示解説にあった1943年の写真ですが、
外壁だけが残って、いわゆる廃墟の状態にありますですね。
先日のパリ・ノートルダム大聖堂での火災のようすを見ても、
見た目ではがっしり堅牢な石造建築物に見えて、その実、火の手が上がればよく燃える…。
先にも触れたレニングラード包囲戦のさなか、
ドイツ軍の砲撃にさらされて宮殿はすっかり灰燼に帰してしまったようで。
それを忠実に再現しようという試みは歴史を歴史として受け止めているからでもありましょう。
(ソビエト政権ではそのあたり、独自のバイアスがかかっていたものと思いますが)
まあ、日本各地で行われるお城の修復なども、もちろん歴史に思いを馳せてのことですが、
そこは俗っぽく考えれば観光資源になるということもあり、それはロシアとて同様でしょう。
日本のお城を訪ねて甲冑姿の侍が現れたりすることがありますように、
こちらでもかような姿で観光客を迎えるところもあるようで。
気分的には昨年の今ごろ読んでいたトルストイの「戦争と平和」 を思い出すような。
ま、ナポレオンのロシア侵攻はピョートル大帝がこの宮殿を造ってから
およそ100年後になりますので、時代は少々合わないかもですが…。