ベルリンの街なか歩きはかつて「ベルリンの壁」だったあたりに沿って進んでまいりましたですが、
ブランデンブルク門 の東側、パリ広場からはちと壁から外れたひとつ裏道へと入り込みました。
およそ喧騒とは無縁の落ち着いた、言い方を変えれば裏さびれた通りを進んだ先に
お目当てのベルリン・フンボルト大学森鷗外記念館はありましたですよ。
2日間のベルリン歩きの中で数少ない、壁 とナチス とに関わりの無い施設ということになります。
なんせ現地在住者の案内に導かれた探訪は特にその2点押しだったものですから(笑)。
とまれ、ベルリンに滞在して3度下宿を変わった鷗外・森林太郎 の
最初の下宿だったところが記念館になっているだそうな。
扉の右側にある古風な雰囲気のある銘板は、
1965年、当時の東ベルリン市に対して川端康成、丹羽文雄、高見順の3人が
鷗外顕彰のために取りつけるよう依頼したものだそうでありますよ。
「1887年から1888年、ここに住まう」とか
「日本の文学者でファウストを最初に翻訳した」とかいったことが書かれてありました。
で、扉から一歩中へと入りますと、階段にはやおら日本語が。
げに東に還る今の我は、西に航せし昔の我ならず、学問こそ猶心に飽き足らぬところも多かれ、浮世のうきふしをも知りたり.
やはり「舞姫」の一節でありますなあ。
と、そんな階段を上った2階に鷗外記念館はありました。
早速に中へと入るわけですが、ここから先は写真は無しでして。
まあ、個人ですから断ればOKだったかもしれませんけれど。
とまれ、展示としましてはベルリンでの鷗外の人的交流をパネルで示してあったり、
自筆の手紙があったり、また関連蔵書の並ぶライブラリーがあったり。
興味深いところもありますけれど、どちらかというと文字通りに「記念館」であって
必ずしも博物館、資料館ではないということになりましょうかね。
要は、ベルリンに着いたばかりの鷗外がかような裏道に入った角の建物の2階に下宿した、
その当時の雰囲気を思い、もしかするとここでゲーテ の「ファウスト」を読んだり、
アンデルセンの「即興詩人」をドイツ語訳で読んだりしながら、
やがては翻訳してやろうと思い巡らしていた鷗外の姿に思いを馳せる場所といいますか。
そういう点では、ここを訪ねる前(あるいは訪ねた後でも)読んでおきますと
林太郎も見たであろう「維廉一世の街」、ヴィルヘルム1世の頃のベルリンのようすが
よおく分かって面白かろうと思しき一冊がありますですよ。
題して「鷗外のベルリン―交通・衛生・メディア」というもの。
森鷗外というと、とかく文学者という側面ばかりを思い浮かべがちですが、
そもベルリンにやってきたのは医学、衛生学を学ぶためだったわけですから、
その側面を抜きにしては片手落ちになりますよね。
記念館の展示で人脈を見てもその方面へのひろがりはありますし、
また本書には「衛生」の一項もありますので、当時のベルリンあるいは当時の日本の
公衆衛生のことにも話は及んだりして、理解を広げてくれるわけなのでして。
例えば、林太郎の研究対象には「脚気」がありまして、
もっぱら細菌によるとの説を取っていたわけですけれど、
ベルリンで当時の細菌学の泰斗であるロベルト・コッホの薫陶を受けたとなれば、
それもむべなるかなと思ったり。結局のところ、脚気は細菌によるのではないのですが…。
ただ、そうした研究をしていたからか、根っからの潔癖症であったか、
自宅では家族がうんざりするほどに黴菌対策には余念がない人でもあったようで。
それだけに、明治政府がやろうとした公衆衛生が
生活の貧しい者(黴菌の元?)を押し込める区画作りだったりしたのに対して、
森林太郎は黴菌の元を断つことせずに押し込めるなど蔓延の元を温存するだけと
真っ向反対していたようでもありますな。
そんなこんなのことにも触れて、ベルリンの鷗外下宿に臨めば
感慨もひとしおであろうかと思ったものなのでありますよ。




