ということで、ベルリンの町中を見て回るべく地下鉄の駅へやってまいりました。



しかし、このヴィッテンベルガープラッツ駅、レトロな雰囲気を湛えておりますなあ。
地上のビル群とはだいぶ趣きが異なるようで。



アムス滞在の最後で乗った地下鉄は駅も車両も新しいものだっただけに
ベルリンの方はこうした駅構内のようすもまた車両自体も(外の建物とは打ってかわって)

古い…のはどうしたことなのでしょうかねえ。


とまれ、ここから地下鉄に乗って一度乗り換え、たどり着きましたのは
「Kochstraße/Checkpoint Charlie」という駅でして、地上へ出てほんのひと息、

見えてみたのはかのチェックポイント・チャーリーなのでありました。



今では繁華なフリードリヒ通りを普通に車が走り抜けていくばかりですけれど、

この兵士の写真が掲げられた場所のことはご存知の方も多いはず。

兵士の写真が掲げられたところを境に手前側が西ベルリンのアメリカ占領地区、

向こう側が東ベルリンとなったソ連占領地区でその境界線上に立つ検問所のひとつが

チェックポイント・チャーリーでありました。



上の写真を撮るのに立っている地点は西ベルリン側になりますので、

こちら側をソ連軍兵士が見据えており、、反対側に回ると米軍兵士の写真ということになります。

とにもかくにもかつての東西分断の象徴のような場所であったわけですなあ。


第二次世界大戦での敗戦を経てドイツは英仏米ソの四カ国に分割占領されることになり、

首都ベルリンまでが四カ国でのエリア分けをされてしまう。

しかし、ひとつの戦争が片付くと同時にすぐさま東西冷戦の構図が浮かび上がり、

ベルリンはその冷戦構造の最前線に置かれてしまったわけです。


後に東ドイツ(DDR、ドイツ民主共和国)として独立することになるソ連占領区域内にあって

ベルリンの英仏米占領エリアは西ベルリンとして、共産主義の海に浮かぶ資本主義の

孤島のような形になってしまう。


やがて西ベルリンは悪名高い「ベルリンの壁」に囲われることになりますけれど、

それ以前から検問所はあったわけで、ちなみに「チャーリー」という呼ばれ方は

単にアルファベットを聞き間違えたりしないように使う符牒のようなものですね。

映画の中でも米軍が「A、B、C」の代わりに「アルファ、ブラボー、チャーリー」と言ったりしますが、

あれのことです。


そんな「検問所C」でしかないチェックポイント・チャーリーが夙に知られるようになったのは

「ベルリンの壁」が最初に造られてから二ヵ月ほど経った1961年10月のことでしょうか。

この検問所を挟む至近距離で米ソの戦車が対峙するという事態が起こったのですから。



これはそのときの様子を写したものですが、

チェックポイント・チャーリーのすぐ近くにある「Mauermuseum」(壁博物館とでもいいますか)の

リーフレットから借りたものでありますよ。


源平合戦の「富士川の戦い」ではありませんけれど、

ここでもし水鳥の羽音でも立っていようものなら、核による世界戦争になっていたかもしれない。

そんな局面であったところ、幸いにもここではほどなく両者撤退したのでありますが。


とまあ、かような現代史の一場面に思い巡らすのもなんだか…というほどに

観光地化されているようであるのは、いいのだかどうなのだか。


だいたい上の写真に見る検問所の建物自体、

2000年になって元の場所からずいぶんと後退した場所に建て直されたのだとか。

例え負の遺産であっても記憶に残すことが必要だという考えもありましょう。

一方で、当時のようすを思い起こさせるようなものは取っ払ってしまってもらいたいという

思いもありましょうね。


再建された検問所の先、米ソ兵士の写真がおもてうらで掲げられる交差点を

左折して歩く道すがら、「ベルリンの壁」の残存物などを目にしますと、

これもまた見る人によって複雑な思いを抱くことになるのだろうなあと思ったりしたのでありました。