さて「ベルリンの壁」であったところ伝いに歩いて、ポツダム広場 からホロコースト記念碑 を経由し、
(必ずしも壁に沿って歩くこと自体を目的としていたわけではないのですが…)
たどり着いたのはブランデンブルク門でありました。
ポツダム広場がポツダムに通じる出発点(昔はこちらにもポツダム門があった)であったのと同様、
ブランデンブルク門の名前の由来はブランデンブルクに続く道はこの門が出発点というわけで。
もっともブランデンブルクといって町を思い浮かべるよりは、
ベルリンを取り巻いているブランデンブルク州(その中にあってベルリンは単独の州)ですとか
歴史に出てくるブランデンブルク辺境伯、ブランデンブルク選帝侯といった名称、
あるいはバッハ のブランデンブルク協奏曲でもありましょうか。
とまれ、ブランデンブルクへとつながる道が西にまっすぐ伸びていることは、
ヨーロッパの中でもかなり東に寄ったプロイセンのこと、
そのままヨーロッパの中心に繋がる道という重要性もあったのではないですかね。
かつて市の出口として西の端に置かれたということは、その先は市外であったわけですが、
今ではティーアガルテンの木立の先に勝利の柱「Siegessäule(ジーゲスゾイレ)」が立ち、
さら西側への市街が広範囲に広がっているのでありますよ。
かつて市内と市外を分けたブランデンブルク門ですが、
第二次大戦後には英米仏占領地区とソ連占領地区とを分ける位置となりまして、
ということは後にここを「ベルリンの壁」が分断するわけで行き来ができなくなる。
つまり通れない門として東西冷戦の象徴ということでもあったのですよね。
今では「ここに壁が通っていました」という痕跡を見るばかりですけれど。
ところで、ブランデンブルク門でひと際目を引くのが
天辺に載っているクワドリガ、4頭立ての二輪馬車でありましょうか。
映画「ベン・ハー」でチャールトン・ヘストンとスティーブン・ボイドが繰り広げる戦車競走で
使われている馬車でありますね。
御者を務めているのは勝利の女神ヴィクトリアとされていますけれど、
元々は平和の女神エイレーネーとされていたのだといいます。
平和の女神にしちゃあ勇ましすぎるのでないの?とは誰しも思うところながら、
プロイセンの象徴たる鷲と鉄十字は後付けなんだそうでして。
これはシャルル・メニエが描いた「ナポレオンのベルリン入場」の部分でして、
これをよおく見ますとわけですが、確かに門の上で女神が鉄十字を掲げてはいないようす。
だからこそでしょうか、ナポレオン 軍はこのとき、門上のクアドリガ像を持ち去ってしまったとか。
後に1813年のライプツィヒの戦いでプロイセン含む連合軍がナポレオンを打ち破り、
そのドイツ支配を終わらせたことで、ようやくクアドリガは元の場所に戻されたそうなんですが、
そうした強運が手伝ってのことか、やがて鷲の紋章と鉄十字が加わって勝利の女神と
目されることになったてな話でありますよ。
ちなみに門の下、柱の間の通路は5つありますが、真ん中だけがやや広い。
ここは王様専用の通路であったということです。
と、プロイセンの歴史を今に伝えるブランデンブルク門なのでありました。