「獄友(ごくとも)」というドキュメンタリー映画を見てきたのですね。

一昨年に袴田事件を扱った映画 を見たですが、同じ監督の作品なのでありました。


映画「獄友」

布川事件、足利事件、狭山事件、そして袴田事件。

再審で無罪が確定したものも、残念ながらまだのものもありますけれど、

後者は無罪を主張し続け、前者は後者を支援し続けているのですよね。


なんとなれば、同じ刑務所で「時」を過ごすという経験ばかりでなく、

無罪であることを信じてもらえずに収監されているという状況にも

それぞれを近付けるものがあったろうかと思うところです。


さりながら「獄友」(監督による名付けだそうですけれど)というのはどうよ?…と

思ったりしたですが、それぞれの事件の冤罪 被害者たちの姿は

実に明るくあっけらかんとしているふう。互いに屈託なく付き合っているさまは

まさに「獄友」でもあらんかとも。


とはいえ想像に難くないところながら、

映画の中で見ることのできる姿や語られる言葉はやはり一面なのですよね。

叫び出したくなることも、逃げ出したしたくなることも、何かの折にふっと起こってくる。

長い期間、刑務所に入れられたというばかりでなく、仮に釈放された後にも

残像のようなものに苛まれるとなれば、やはり裁判に間違いがあってはならないだろうと。


ですが、裁判もまた人のすることで間違いが無いとは言い切れない。

だからこそ「疑わしきは罰せず」と言われるわけですけれど、

これは裁判以前の問題でもありますね。

裁判になる以前に自白の強要(しかも暴力的に)が行われたりするのですから。


ここで怖いのは、例えば不良なのだからこんな事件を起こすのだろうとか、

ひきこもりで暗い性格のやつは何をしでかすかわからないとか、

布川事件にしても足利事件にしても、取り調べ段階でそんな思い込みがあったろうということ。


してなおのこと悩ましいのは、そうした容疑者が逮捕されたという報道に接したとした場合、

単にニュースとして受け取るだけの側の方にも「やっぱりなあ」とか「そうだろうなあ」といった

推測をしてしまいがちだという点でもありましょうか。


判断の基準をどこにどのように置くかは個人差がありましょうけれど、

取り分け自分自身の経験や思いに信を置いてしまうところはあるわけで、

どんなに客観的にといっても主観は入り込んでしまう。

映画「十二人の怒れる男」の陪審員たちの姿が思い浮かんでしまうところですね。

それぞれの人物造形に誇張はあるにしても。


社会規範を担保する上で法律や裁判は必要なものと思うところながら

いずれの制度も人が作りだしたもので完全無欠なわけではないわけでして、

その無欠でないところを忘れずにどう補うかを考えるところがなくては

冤罪のような過ちは無くならないことになってしまう。


犯罪捜査や裁判に携わらない一般人(裁判員になる可能性は無きにしもあらずですが)でも

目隠しして天秤を掲げ持つテミス像 を頭の片隅にでも置いておくようにしたいものだなと

思ったものなのでありました。