三谷幸喜という人は、もしかして法学部卒か何かか?と思ったら日芸でしたですね。
そんなふうに思ったのも、たまたま「ステキな金縛り」と「12人の優しい日本人」を見たから。
特に「12人の優しい日本人」は三谷作品の映画化(監督はしておらず、脚本だけ)としては
かなり初期のものでしょうし。


12人の優しい日本人 [DVD]/塩見三省,豊川悦司


この「12人の優しい日本人」は、タイトルから想像がつく通りに
米映画「十二人の怒れる男」のパロディーでありますね。


元の作品は大好物でして、映画は何度も見ていますし、芝居でも2~3回見ているだけに
パロディー化しているあたりに(Wikipediaなど解説されてたりするのを参照せずに)あれこれ
思い巡らして面白がることのできる映画なのですね。


ですが、ここでふたつの映画を並べてあそこが、ここがとやるつもりはないのでして、
つくづく思うのは、人間というのはロジカルに考えているようでいて、
実にエモーショナルであるなということに触れておこうかと。


米映画の元の話は、ある殺人事件で被告の有罪がまさに全員一致で評決されようとした時に、
ひとりヘンリー・フォンダが疑義を呈して、話合いを重ねた結果、無罪の評決が下されるというもの。


これが三谷作品では、全員一致で無罪の評決が下されようというときにひとり疑義を呈して、
話し合うことになり、結果として全員一致で…(あ!ネタばれしてしまうとこでした)。


議論の中ではさまざまな可能性が示唆されて、
そのたびにあまり主体的に参加していない陪審員たちは揺れ動く。


一方で、頑として揺れ動かない陪審員の方は

どうやら「あの人がそんなことをするわけがない」といった単なる主観だったりするわけですね。


ヘンリー・フォンダの冷徹さがアメリカ人ぽいかどうかは別として、
こちらに登場するのは至って日本人らしい「和」の心を持った人たち。
タイトルも実に意図的なものだと窺い知れます。


ただし、どちらの映画もやっぱり映画であって

全くそのまんまのリアリティーがあるとは言えません。
が、だから現実はそうでもないと果たして言い切れるものかどうか。


以前、ある憲法学者の方の研究室に行ったところ、
ギリシア神話の女神像のような、小さな置物が目にとまりました。


何でも法を司るテミスという女神の像なんだそうですが、
公正であることのシンボルとして天秤を携えているのが常であって、
法律関係の仕事部屋にはよく置かれているのだとか。


で、このテミス像ですけれど、目隠しをされている姿のものとそうでない姿のものがあるそうな。
本来的には目隠しは特徴のひとつであって、「見た目に惑わされない」との意であるところが、
逆に目隠しは真実に目を背ける姿に繋がり、独りよがりな意見に通ずとの考えもあるらしい。


法律家の人たちは(それぞれの考えで?)どちらかのテミス像を置き、

日々の戒めとしているかもですが、陪審員(裁判員もそうですね)にとっては、

見た目に惑わされてはいけない、真実に目を背けてもいけない、どちらかに偏ってはだめと、

慣れている法律家だって日々の戒めを手近に置いているのに、
普通の人には取り分け難しいことでありましょう。
あってはならない悲喜劇(映画のような?)もあり得ないとは言い切れない。


ところで、ちなみにですけれど、日本の最高裁判所にもテミス像があって、
これは目隠しをしていないのだそうです。


先ほどの解釈に従えば、目隠ししていない像の設置は

真実に目を背けるようなことはしないとの決意表明にも思えますけれど、
はて裁判の現実はどうでありましょうか。


被告の側、原告の側、それぞれの主張に対して思い込みや感情論を抑え込むという、
普通の人には難しいことをやってのけて、専ら真実に目を向け、これを見究めた結果として
一般人が得心するところになっていましょうや。


そもそも再審申請がたくさん出されることからして「どうよ?」と思うところながら、
(警察、検察の側の問題もあれこれ言われるところではありますが)
判決を下す人たちには二つのテミス像を忘れずにいてもらいたいと願うばかりでありますよ。