トルストイの「戦争と平和」第4巻を読んでおりますが、
(最終巻をカメの歩みで読み続けてようやっと出口が見えるところまできました)
モスクワから退却するナポレオン軍の捕虜となったベズウーホフ伯爵ピエールの
捕虜仲間たちの会話に冤罪で刑に服している老人の話が出てきたのですね。
旅先の宿で殺人事件が起こり、
凶器となったナイフが枕の下から発見されたということで犯人にされた老人が、
収監者たちそれぞれに自分でどんなことで刑を受けているかといったことを語る中で
実は自分は罪を犯しておらず…と語るわけですけれど、
聞いていた収監者の中には本当の犯人が混じっており
このときばかりは大いに罪を悔いたのでありますよ。
こうした話を読んでいるときに相前後して映画「トゥルー・クライム」を見たのですなあ。
コンビニを襲って強盗殺人を犯したとされ、無実を訴えるも死刑を宣告されてしまった囚人に
死刑執行の刻限が迫る中、死刑囚の最後の心境を取材するように命じられた新聞記者が
予備知識として事件そのものを振り返ってみると、裁判結果に対する疑念が湧いて…
というお話です。
まあこういう筋立てですから最終的な落着点としては見えており、
実際にそれを裏切らない展開をするわけですけれど…と書いてはネタばれなのかもですが、
この先はもそっと内容に触れることになってまいりますので予め。
いくらなんでも杜撰な裁判があったものだと思うところではありますがそれはそれとして、
公判過程で重視された目撃証言というのが虚偽、そうまで言わなくても思い込みであったとは。
被告人が黒人であって確かに過去に犯罪歴はあるところから、姿を見かけたことが即ち犯人と
何ら疑いもなく思いこんでいたのでしょう、目撃者の白人は。
このあたり、レジナルド・ローズの「十二人の怒れる男」を思い出すところですね。
とまれ、そうした思い込みが全体を支配して重視される証言がある一方で、
全く顧みられない事実もあった。そのあたりを新聞記者のエベレット(クリント・イーストウッド )が
ちょちょいと探りを入れただけで疑問符が立つようなことであるにも関わらずです。
で、死刑執行まで数時間という段階でエベレットは抱いた疑念を晴らすべく動き回り、
真犯人と思しき人物にたどり着くも、すでに当の本人は亡くなってしまっていた…。
もはや自白を引き出すこともできずに途方にくれるエベレットでしたが、
やはり亡くなってしまっていた人物が真犯人にであるとの決定的証拠を
ふとしたことで発見するのですなあ。
ここで思うところは先の「戦争と平和」に引用されたエピソードに影響されているのかもですが、
決定的な物証が残されていたのは、真犯人たる人物は
自分が犯人だとやがて知れることを願っていたのかもしれませんね。
真犯人たる若者はそれこそ若気の至りでドラッグに手を出し、銃も持ち歩き、
そうした状況がコンビニでの強盗殺人を生んでしまった。
これは死刑囚となっている人物が過去に犯罪歴があるも、
今は信仰に目覚め、更生して生きているわけですが、
もしかするとこの人物自身、過去はその若者のようだったのかもしれないわけです。
ですから、その後に更生する機会が無いとはいえず、
場合によっては「戦争と平和」にあるエピソードの真犯人のように
自分の罪を他人に被らせてしまっていることを何らか省みることが無かったとはいえなかろうと。
「トゥルー・クライム」の物語としては、刑執行までの残されたわずかな時間に
果たして冤罪 を晴らすことはできるのか、はらはらどきどき…という展開ですけれど、
その裏側ではエベレットの人物像やら新聞報道への皮肉やら
はたまた刑務所付き牧師の似非正義感やら、いろんなことを考える要素がありましたな。
ただ、映画としてとてもよく出来ているとは残念ながら言えないわけですが、
そうであってもあれこれ考えるところがあることに存在価値はあるなと思うのでありましたよ。
翻って「トゥルー・クライム」というタイトルも真犯人捜しといった面だけで
捉えては誤ることになるのかもしれません。