METライブの2017-18シーズンの最後となる

マスネの歌劇「サンドリヨン」を見てきたのでありまして。

「サンドリヨン」とは要するに「シンデレラ」なのですけれど、果たして…。


METライブinHD「サンドリヨン」


実はMETライブ2013-14シーズンの最後の上映作品がロッシーニ の「ラ・チェネレントラ」で、

それを見てきた後に「チェネレントラはシンデレラでない?…ということ」 を書いたのですね。


よく知られたシンデレラの話をオペラ化するにあたって、結構な改変を加えていて

「おやぁ…」と思ってしまうところながらも、オペラとしての仕上がり故に「これもありか」と

そんな印象なのでありました。


でもって今回見た「サンドリヨン」もまた、先の「チェネレントラ」ほどではないにせよ、

知っているシンデレラ物語とは違うような。


もっとも、「灰かぶり 」とも言われる原話は伝承によるものですから、

おそらくは語り継がれるほどに時代や地域での違いが加わり、

さまざまなヴァリアントを生んだものと思います。


ですから、個人的に「知る限り」(かなりディズニー映画に影響されているでしょうし)こそが

シンデレラであると思うこと自体が間違いの元とも言えましょうなあ。


で、ここでのお話はと言いますれば、

まずシンデレラ、サンドリヨンにはリュセットという歴とした名前があるのですね。

そして、リュセットには父親が健在(物語の最初から最後まで登場します)で、

小心者ながら野心を抱える人物であるが故に、20代も続く貴族の家系に連なる婦人、

ド・ラ・アルティエール伯爵夫人と再婚をし、それがリュセットの継母ということになります。


この再婚相手に二人の娘がおり、リュセットより年上なのでしょう、

義理の姉ということになりますね。これがいつも母親とつるんで

リュセットにつらく当たる…となれば、シンデレラ物語らしくなりますが、

そうしたあたりは歌の中で言葉には出てきても、実際に場面として描かれることはない。

みんなどのみちシンデレラのお話は知っているでしょうということでしょうか。


夫人と義姉二人が王宮の舞踏会に出かけるとき(これには父親も付いて行ってしまいます)、

残されるシンデレラにはあれこれの家事が残されたりするところですが、

そうしたところも匂わせるところはあっても具体的には余り描かれない。


何となればこの伯爵夫人家には使用人がごろごろいて、

いかに再婚した夫の連れ子とはいえ、夫が健在であるのに(それがいかに弱腰であっても)

まったく使用人がするようなことを言いつけることはできないように思いますし、

そうでないとするなら、あんなに使用人はいらないのではないかとか、

使用人がリュセットに同情して違う物語ができてしまうような気もしてしまうわけです。


とまれ、妖精の女王(魔法使いのおばあさんでなくして)に願いが通じ、

華麗なる変身を遂げて王宮の舞踏会にやってきたリュセットに王子様が一目惚れするも、

お約束通りに夜12時になって逃げ帰るリュセット、追う王子様、残されたガラスの靴…と、

この辺はおなじみですが、舞踏会から帰ってきた継母・義姉たちが語った話は

舞踏会で王子様をたぶらかした得体のしれない娘がおり、捕まえ次第、縛り首になるのだと。

聞いたリュセットはびびりまくるわけですね。


とまあ、どうです?印象が違うでしょ…ということを記すのはこのくらいにしておきまして、

こうした違いが作品として生きているのかどうかなのですが、難しいところではないですかねえ。


幕間のインタビューで指揮をしたベルトラン・ド・ビリーの話に曰く、

「この作品の主眼はロマンスなのです」てなことですが、そのようにうまく行っているかどうか。

確かにマスネは素敵な音楽を付けているなと思いますけれど、台本はどうでしょう。


まあ、台本だけに責めを負わせるのは適切でないとして、演出で工夫のしようがあるのかも。

フランス・オペラに伝統的なバレエを入れることに倣ったのか、

このオペラには歌唱を伴わず音楽だけが流れる場面がままありまして、

そこで踊りを入れるのがフランス・オペラ的なのかもしれませんが、

その部分を利用して観客にどういう暗示ができるかというのが

演出の工夫のしどころなのかもしれません。


メトロポリタン歌劇場の長い歴史の中で、この作品は今回が初御目見えであるとか。

一概に言えないこととは承知の上ですが、それだけ取り上げられる機会がなかったことには

いろいろな理由が想像されるところですけれど、そもそもの作品評価とまでは言わずとも

どう全体を作り上げて提示するかが難しい作品なのかもしれませんですね。