ガブリエラ・モンテーロのピアノによる即興演奏

二度と聴けない音楽と感慨深く思っていたわけですが、

その後試みにYoutubeで検索するとざくざく出てくるのですなあ、モンテーロの即興の記録が。


おそらくは一昨日の演奏会が録画録音されていたとは思われないので

その時の演奏はそれっきりであることは間違いないものの、

モンテーロが演奏会ごとに?即興演奏を見せているようで、

それがたくさん記録されている、とまあ、そういうことのようです。 


とまれ、印象深いピアノ演奏に触れてふと思い出したのが

「ロシアにピアノが伝わったのは1801年」らしいということ。

しばらく前の読響演奏会のプログラムに書かれてあって、

ほんとかいね?と思ったものでありました。


ピアノの原型はイタリアのバルトロメオ・クリストフォリが1709年に発明したとされてますね。

それが18世紀から19世紀を通して改良されて、どんどん今の形に近付いていったわけですが、

その発展過程の楽器をモーツァルトベートーヴェン も使っていたのでありましょう。


とはいえ、1801年までロシアにピアノが伝わっていなかったとは

俄かには信じがたかったところながら、トルストイの「戦争と平和」 を読んでいて

「そういうことだったんだあねえ」と思ったのでありますよ。


アウステルリッツ会戦(1805年)の前夜から始まるこの物語では

第2巻まで進んで1807年くらいのところに来てますが、

ペテルブルクでもモスクワでも貴族の家庭が描かれたりするときに

家族で音楽に興じる場面が出てきたりするのですな。


誰かしらが鍵盤楽器を弾くと、それに合わせて誰かが歌を歌うといった具合ですが、

その鍵盤楽器というのがどの貴族の邸宅にあってもクラヴィコードなのでありますよ。

決してピアノではないのでして。


初めてロシアにピアノが伝わったのが1801年として、その当時は極めてレアものであり、

1807年頃でも貴族の家庭でのご愛用はクラヴィコードだったということになりましょうか。


ただ、そんなふうに遅まきながらにロシアに伝わった感のあるピアノながら、

「ロシア・ピアニズム」なんつう言葉を聞くくらいにピアノ教育に熱心ロシアであり、

また名ピアニスト(要するに余りピアノ曲を聴かない者でもたくさん名前を知っている)を

数多く輩出しているのもロシアであったりしますですね。


そこで、ピアノが遅れて入ってきたのに…ということを考えてみたわけですが、

かなり肝心な点は発展途上の楽器に飛び付くでなく、

大事にクラヴィコードで研鑽を重ねてきた土壌あらばこそなのかなと思ったのでありますよ。

ピティナという音楽指導者団体のHPにはクラヴィコードの解説として、こんな記述があります。

J.S.バッハはクラヴィコードを、「練習や個人的楽しみのためには最上の楽器」とし、息子のC.P.E.バッハも自著の中で、「クラヴィーアのよい演奏表現を身につけるためには、クラヴィコードが不可欠」と述べている。

大バッハ はクラヴィコードの音が小さいことから、かような言い方をしているものの、

肝心なのは「練習には最上」としている点。息子のカール・フィリップ・エマヌエルも同じですね。


クラヴィコードの特長は「タッチの微妙な変化がダイレクトに弦に伝わるため、

繊細で自在な感情表現が可能で、最もカンタービレな演奏が可能な鍵盤楽器」だということ。

(これもピティナHPの解説です)


こうした楽器を長らく愛用してきたロシアでは期せずしてピアノが導入された後にも

その機能向上を如何なく利用して豊かな感情表現をピアノ演奏に乗せることができた、

とそんなふうに想像することができるような気がしないでもないのですなあ。