Eテレ「クラシック音楽館 」でこの間放送されたコレオグラフィック・オペラ「松風」を見ながら、
この手の作品にはついつい「分かる、分からない」というものさしを当ててしまうなあと。
前後して、メディアアーティストとともに作り上げた「三番叟」の舞を紹介する「にっぽんの芸能 」に
主演の野村萬斎が登場して、「分かる、分からないよりも感じてもらえれば…」てなことを言ってたなとも。
作品に相対するときに知性よりも感性を優先させてとはよく言われることながら、
「三番叟」のように物語性がないものは感性優先にもっていきやすいところとは思います。
ただ演じ手の側がそう言っても、「国土安穏・五穀豊穣」を祈る舞であると知恵を付けれれば
その所作の中に何かしら意味付けとなるサインを見出そうしがちにもなってしまうもの。
となれば、オペラ「松風」には能「松風」から持ってきたストーリーがあり、
しかも意味を持つ言葉を使っての台詞や歌唱を伴うものですから、
それを「理解」しようとして「分かる、分からない」という尺度で考えがちなのも
無理からぬこととなりましょうか。
かつてはそういうものさしを当てた結果として「分からない」方に傾いたときには
「なんだか分からんな。おわり」というだけでしたけれど、近頃は(いささか開き直りもあって)
分からんとしてもどこかにどんな小さなフックでもあれば、それをとっかかりに
あれこれ思い巡らすこと、それ自体を楽しみするようにもなってきているという。
そうなると作品自体には失礼ながら、
思いの飛躍の踏み台というだけという場合もありますねえ…ということで、
またまた長い前置きになってますが、オペラ「松風」の「分かる、分からない」はともかく
ちょっとしたフックに気付いたところからの話です。
解説の部分で作曲者が自然音(ともすればノイズ)と楽音の融合といったことを言ってましたが、
確かに曲名にも絡んで風の音がいろいろな場面で使われていたのですよね。
で、風の音というのは、今さらながらですけれど音階では表せないものだなと思ったわけでして。
楽譜に表すとすればグリッサンドの記号を付ければよいのでしょうけれど、
楽器によってはいくらグリッサンド記号が付いていても機構上、
アナログ的に連続した音を出すことができないものがありますよね。
例えば鍵盤楽器とか。
原初的な楽器とも言える声にはそれが可能ですね。
つまりは風の音のような自然音を模倣することができるわけです。
ですが、音楽の歴史(西洋のというべきでしょうか)では
ディズニー の「ドナルドのさんすうマジック」に詳しく(?)出てきますけれど、
ピタゴラス が音階を作り、それで音の調和を考えるようになりますと、
本来は自然音の模倣から始まったかもしれない音楽というものが、
音階で区切られた音を使用するもの、それこそが美しいものとされるようになったのでは。
ギリシア神話のアポロンが奏でる竪琴は
そうした区切られた音を演奏するためのもので、
そうした楽器の系譜がピアノにまで繋がっていくのでありましょう。
これに対して、ヴァイオリンを始めとした弦楽器の形態は
楽譜に表されていない音をも含めたグリッサンドが可能ですけれど、
これとてグリッサンドが可能なことを個性として生まれた楽器ではありませんよね、きっと。
ですから、長い年月、音楽は自然を離れて音階で示せる音の調和を意識して
受け継がれてきたのように思うわけですが、それが現代に近付いてくると
むしろ自然音に回帰するといいますか、そうしたことにもなってくるような。
オペラ「松風」での風の音利用もその一例として。
と、こうしたことを考えていたりしたときにまたひとつ思い出したのは
少々前の「クラシック音楽館」で放送されたメシアンの「トゥランガリラ交響曲」のことでして。
有名な曲ながらこれまで耳にしたことがなく、
というより近寄りがたくレコードやCDも手にしたことがなかったので初めて聴いたものですから、
これはこれでまた「分かる、分からない」を考えてしまいそうになりますけれど、
ここで思い出したというのはオンド・マルトノという20世紀生まれの楽器なのですね。
かつてのNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」のテーマ曲で
随所に見事なグリッサンドを聴かせてくれるのがオンド・マルトノ。
この楽器に備わったリボンという機構がグリッサンドを表現しているわけですが、
この機構が敢えて付けられているというのは、この楽器がそもそもの独自性として
(鍵盤楽器のように見えるものながら)音階によるとびとびでないグリッサンドを意識して
作られた楽器なのではと思うのですよね。
こうした楽器が1928年に作り出される背景には、
19世紀半ばから世紀末を通じて「自然」に重きを置く芸術思潮が
あったからかなとも思ったりするところです。
かつては克服すべき対象であった自然と共生していくことが
指向されるようになってきたことも考えますと、オペラ「松風」のような作品が誕生するのも当然。
ですので、「分かる、分からない」という二者択一に印象を押し込める必要もないと
思ったりするのでありました。