古刹・羅漢寺 を後にして、山国川の流れに沿い、中津方向を目指したですが、

あたりは耶馬溪と言われる岩峰に挟まれたところを通るのですな。

もっとも通りぬけたところはさほどに両岸が迫っておらず、むしろ河原がひろびろしておりました。


そんな崖と川とのへりを進んでいきますと、

やがて知名度は全国区であろうかと思われる名所(実は難所)にたどりつくのですな。

その名を「青の洞門」という。


青の洞門(車道北側入り口)

ああ「青の洞門」などと聞きますと、

カプリ島の「青の洞窟」のように真っ青な世界が現出するのでもあらんかと思ってしまったり。

ですが、「青の洞門」の「あお」はあたりの「青地区」という地名由来のようですな。

単純に「洞門内が青いのでは…」てなふうに思ってはいけないようで。


上の写真は南北に貫かれた洞門の北側、

それも車道用でして、明治になって拡張されたもののようです。

それでも道路は一車線で、南北それぞれの入口にある信号機でもって

交互に通行しているというのが現状なのですなあ。


洞門の通行は一車線


洞門南側の車道出口付近を見る限り、

本当は二車線を掘り抜こうをして早々にあきらめた…てな印象があるのですな。

そんなところをよくまあ、手掘りで掘り抜いたものだとつくづく思うわけです。

南側に抜けた先には、その手掘り作業に挑戦した人物の像が建てられておりますよ。



この像は歴史上の実在の人物である禅海というお坊さん。

先に訪ねた羅漢寺に詣でる際に通りかかったこの切り立った崖が交通の難所であることから、岩を穿って道を通すことを思いついたとか。


禅海和尚の像@青の洞門

ですが、実際の禅海和尚は自ら岩を穿つ姿とされているのですけれど、

基本的にご本人は費用集めの寄進に邁進し、石工を雇って掘り抜いたとも言われます。

限りなくストイックに岩と向き合ったというのは、そも「青の洞門」を全国区の名所にするのに

大きく貢献した菊池寛の小説「恩讐の彼方に」によるようでありますね。

ですから、この像は禅海和尚の像という以上に小説の主人公・了海和尚の像であろうと。


ということで、このほど「恩讐の彼方に」を改めて読んでみたですが、

主殺しで追われる身となった主人公がすっかり悪の世界に染まるも一念発起の得度をえて

自らの忌むべき過去をぬぐうにはこれしかないと大岩に向き合うあたりや、

かつてのあるじの忘れ形見がはるばる仇討ちに現われたものの、

了海の姿に崇高なものを感じて…といったところなどは話をうまく作ったものだと

思ったものでありますよ。


禅海和尚手掘り洞門 この下


と、先には車の通る洞門ばかりをご覧いただきましたけれど、

禅海和尚自らかどうかはともなく手掘りで掘り抜いた洞門の名残は

いちだんと川に近いところにあったのですね。


本来の洞門の一部


このくらいの規模であれば先程の車窓よりも手掘りのリアリティーが増すとはいえ、

前に高崎で見た洞窟観音 の大正から昭和にかけて作られたものだということを思い出すにつけ、

江戸の中期(完成は宝暦十三年=1763年)だそうですから、大変な難工事であったでしょう。


と、ここだけ見ますと洞門というより隧道ではないかと、

白馬に行く時に通過した白沢洞門 での「?」に立ち戻ってしまいそうになりますが、

こちらはちゃあんと川岸に向いて光の入る窓が穿たれておりますですよ。

これならまさしく洞門であるかと。


洞門にはやはり光さす窓が開けられている


この開口部あたりにはもともとの手掘りの跡が見られるということですが、

掘り抜くのに30年余りも要したことを彷彿させる部分でもあろうかと。



しかしまあ、かような岩壁の下を掘って道を通そうとはよく思い付いたものですなあ。

その点で禅海和尚は偉いお坊さんだったのでしょうけれど、菊池寛の小説のような背景があると、

さして取り柄のない一般人にはより理解しやすくなるかもしれません。

だからこそ小説の中の了海が禅海とごっちゃになって伝えられてしまうのでありましょうなあ。


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