白衣大観音 を後にひびきばし の見えるところまで一端来た道を逆戻り。
その後はそのまま尾根道伝いに遊歩道を辿っていくのですが、ルートはこんな具合。



かなりアバウトなイラスト・マップですけれど、
右端から左端へと真ん中に続く一本道を進んでいったことになります。


尾根道にある洞窟観音の案内表示


と、ふいに現われたのが「ようこそ洞窟観音」という案内標でありましたですが、
すぐそこに洞窟観音があるというわけではなく、待ち受けていたのはひたすら下る長い石段。


いやあ、下る下る!

下りきったところはちょっとした広場状のスペースになっておりまして、
どうやらここが洞窟観音の正面玄関でもあるようで。


洞窟観音へは本来こちらから


左側に見えている階段が尾根道から下ってきた先でして、
右端に入園券売場とある建物の裏手に洞窟への入口があるのでした。


いよいよ洞窟への入り口で


この洞窟観音なるものですけれど、先に飯坂温泉 に行った際に立ち寄った中野不動尊

やはり洞窟を掘りぬいた中に三十六童子像が安置されているのを巡ってきましたが、

基本的には同趣向でもあろうかと。


如意輪観音像@洞窟観音 楊柳観音像@洞窟観音


岩盤を壁龕状に繰り抜いて三十三の観音様が祀られている。
ちなみに左は如意輪観音で右は楊柳観音ですが、洞窟を奥へ奥へと進むそこここに
あれこれ変化する観音様の石造が安置されているというのですな。


ここをぐるりとひと回りすれば
「坂東三十三観音」の札所を巡ったのと同じご利益があるということですけれど、
何でも三十三箇所札所をまともに踏破すると1,300kmにもなるそうですから、
およそ400mの洞窟観音で代替可能とは何とらくちんな。


ただ、本来的には富士講に参加して実際に富士山に登ることができない高齢者などのために
富士塚 が作られたのと同じで、実際の三十三箇所は廻るのはとても無理という人用のものでしょうか。
類似品はあちこちにありますが、そうとでも考えないとあまりに都合が良すぎるような気が(笑)。


ところで、先の中野不動尊の洞窟は修験者の宿舎代わりに掘られたものだったわけですが、
こちらの洞窟観音は元より観音洞を作ることに端を発しているというのですね。
それもさほど昔々のことではない。掘られたのは1918年から1964年までということですから。


それにしても時間掛かってますね。
何でも機械に頼ることなく、人がツルハシふるって掘っていったのだそうでありますよ。
で、この半世紀近い洞窟掘りは(白衣大観音を建てた井上保三郎ではありませんが)
高崎で大きな呉服商を営んでいた山田徳蔵が個人の私財を投じて行われたそうな。
どうも高崎には観音様に執念を燃やすタイプの人がいるようですなあ。


そんな人力頼みで掘り進められた洞窟の最深部には

ホールのような大きな空間が造られておりました。
そこまでに見てきた壁龕の中の観音様とは受ける印象がずいぶんと異なって
「おおっ」と圧倒されるような気がしたものです。

洞窟の奥には開けた空間が…


仏像もたくさん安置されており…


元々岩盤であったところを掘りぬいているわけですから、辺り一帯が岩や石であるのは当然…
と思うところながら、実は内部のレイアウトにもかなり気を遣っていたようで、
装飾用には掘って出た石を使うのでなく、浅間山の溶岩や下仁田産の三波石を

わざわざ運んだのだとか。


聖観音像@洞窟観音


この観音様の原型というべき聖観音像が祀られている舞台装置などは
正しく溶岩で作り上げたセットでしょうなあ。


とにもかくにもこのご苦労さんな観音洞、全長400mは構想の半分程度とか。
50年近く掘り続けてようやっとここまでなった段階で山田徳蔵さんが亡くなると、
「さすがにもうこのへんで…」となったようす。


「地元高崎の観光振興の為に特に外国人を誘致することを目指して」いたということですけれど、
観光スポットとしては残念ながら白衣大観音に水を開けられているような。


それでもこちらが明らかに優っている点がひとつありまして、
洞窟内の気温が17度くらいで年間を通じて一定している…となれば、
夏は涼しく、冬もそこそこ暖かく感じる。年間通じてOKということになりますなあ。


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