さて、長野駅まで帰ってきました…が、まだ少々新幹線の時間には間があるなと。

そんなときの立ち寄り先として思い付いたのはやはり善光寺でありましたよ。


信州善光寺

往路に長野駅に到着して「ああ、暑い」 となりましたですが、

この帰りがけに立ち寄った長野、そして善光寺の境内も暑い暑い!

ですが、実にたくさんの人がお参りしておるのですなあ。


同じ善光寺でも武田信玄が甲府にもってきてしまった甲斐善光寺 とは

全く比べようもないほどに参詣者で賑わっておりましたよ。


まあ、こちらが本家本元ではあるにせよ、何故これほどに…とは、

善光寺を訪ねたのが初めてで(もっとも長野駅で下車したのが初めてですから)

いかようなお寺さんであるかを知らずにいたからでありましょうね。


そこで公式HPを覗いてみますればご本尊の阿弥陀様がたいそうな古仏であるようで。

「欽明天皇十三年(552年)、仏教伝来の折りに百済から日本へ伝えられた

日本最古の仏像」なのだそうですから。


あまりに古いが故でしょうけれど、日本では未だ仏教を受け入れるかどうかに論争があり、

そんなどさくさから仏様を守るために信濃国司の従者であった本田善光という人が信州に

連れておいでになった。そこで建立されたのが善光寺であるとなれば、お寺も古刹でありますね。

南信州は飯田市での仮住まいを経て、「皇極天皇元年(642年)現在の地に遷座」したのだそうな。


それにしてもこのような中央での揉め事の避難先が信州であったとは、

先日フォッサマグナミュージアム のことを書いたときにも思い出しましたけれど、

この地域の特異性と言いますか(例の縄文VS弥生 の図式ですが)、

独自性を持ち続ける土地柄であったのかもしれませんですなあ。


そも善光寺が「なになに宗」という宗派に属さない存在であること自体、

とても独自性のあることなのではないでしょうかね。


とまあ、かような善光寺に参ったのはいいですが、

とにかく暑かったもので老親もかなりくたびれてきたようす。

なるべく日陰をたどって軽くひとまわり、そそくさと退散することにしたのでありますよ。

その際に見かけたものを二つほど取り上げておくといたしましょう。


仏足跡(仏足石)@信州善光寺


「仏足跡(仏足席)」、要するに釈迦の足形で、わりとあちこちで見られる気はしますが、

解説板で「古代インドで仏像が造られるようになる前から…礼拝の対象とされてきた」と知れば

昔々の祈りの形を思い浮かべたりするところですね。


仏像という形を示してしまう以前、

あたかも足跡から上にお釈迦様の実像があるかのように足元にひれ伏し拝む…

てなイメージでもありましょうか。


石造宝篋印塔(伝佐藤兄弟供養塔)@信州善光寺


で、こちらは石造宝篋印塔ですけれど、「佐藤兄弟供養塔」と伝わっているそうな。

佐藤兄弟といいますのは、歌舞伎の「義経千本桜」で有名な狐忠信とその兄の継信のこと。

福島県の飯坂温泉 からほど近い、二人の菩提寺である医王寺 を訪ねたこともありましたっけ。


兄弟は義経とともに各地を転戦し、その中では長野も通り過ぎたのであろうかと思いかけたですが、

「若くして戦死した二人を供養するため、母親の梅唇尼が善光寺に参詣して建てた」と

伝わるとなればわざわざ長野を訪ねてきたわけで、鎌倉の世にはすでに信州善光寺は

全国区の信心を集めていたのでありますなあ。


それだけに無宗派の寺院である善光寺ながら「全国には443の善光寺仏があり、

『善光寺』を正式な寺名とする寺院は119ヵ寺にものぼる」のだそうでありますよ。

「牛に引かれて善光寺参り」と伝わるのも伊達ではない存在感だったのですなあ。


とまあ、そんなふうに境内ちらりと見て回ったことで、

このほどの「北安曇紀行」は幕を下ろすのでありました。


ブログランキング・にほんブログ村へ