福生の石川酒造 で一献傾けながら昼食をとった話をしましたですが、
造り酒屋ですから日本酒となるのは必定なことながら、

まず最初の一杯はやはりビールでありまして。


と申しますのも石川酒造ではビール醸造も手掛けているものですから、
両親と三人で三様のビールをオーダーし、それぞれにお試しというわけです。


石川酒造のビール

写真の左から、いわゆる普通のビールっぽいピルスナー、

フルーティーな味わいのペールエール、そして右がミュンヒナーダーク、要するに黒ビールですな。

いわゆる地ビールは全国各地にありますけれど、
かなり味に個性を持たせるせいか、好き嫌いが分かれるように思います。
そうした個性を際立たせたタイプに比べると、この3種はいずれもほどのよさを持っているような。
まあ、「多摩の恵」として一般の流通経路に乗っている以上、売れる商品を目指しているでしょう。


蔵元直送ビール多摩の恵500ML3種3本セット


ところで、本来はビール醸造が本業ではない造り酒屋がビール造りに取り組むのは
昨年訪ねた南信州ビール (本坊酒造のビール・ブランド)のみならず、数多に及ぶと思います。


石川酒造の鐘楼・・・ではなくて


ですが、どうやら石川酒造のビール造りは地ビール・ブームの便乗組では必ずしもないようで、
その証拠がこの鐘楼のような建屋の中に鎮座ましましておるのですなあ。


いにしえのビール釜


リベット打ちされたごつごつ感がいかにも昔の鉄製品らしさを醸しておりますが、
日本のビール黎明期に使用されたおそらくは舶来のビール釜なのだそうでありますよ。


先に読んだ「ビールと日本人 」によりますと、
明治23年(1890年)の第3回内国勧業博覧会の審査報告には
「麦酒ハ其出品殆ト一百に垂ラントス」とあったわけでして、
その頃には続々とビール醸造を手掛ける業者が出てきたわけですね。


そうした流れの中で石川酒造もまたビール醸造に取り組んだようでして、
史料館の解説によればこのような経緯があったそうな。

石川酒造では、明治21年2月からビールの醸造を開始し、6月から「日本麦酒」(英文ラベルでは、JAPAN BEER)の名称で近在や東京・横浜へ販売しました。製造法はドイツ式で、年間約300石のラガービールを醸造しました。しかし、まだ王冠の技術がなく、瓶が破裂しやすいなどの理由で、明治23年までで製造は中止されました。

こうして短期間でビール醸造から手を引いたことから、ビール釜は敷地内で打ち捨てられ、
どうみても単なる池にしか見えない状況にまでなっていたことが、結果、

戦時下にお寺の鐘まで鋳潰された金属の供出からも免れて

産業遺産のひとつとして残ったということでもあるようです。


ですが、ふと思うことはといえば、石川酒造がビール事業を止めたのは

王冠の技術が無かったからだけとは思われんのですなあ。
そうした技術が無いのはここ一社だけであったはずもないでしょうし。
そこで気になるのはこの「日本麦酒」というブランド名でありますね。


石川酒造が造った日本麦酒のラベル


石川酒造がビール造りを始める少し前の明治20年(1887年)9月、

恵比寿の地に「日本麦酒醸造」なる会社が設立され、明治23年(1890年)に

恵比寿麦酒が発売される。


「日本麦酒」という会社の設立は石川酒造のビール醸造よりも早かったかもしれませんが、
小さな造り酒屋の方が小回りがきく分、先に製品を販売し始めのは石川酒造だった、
しかも「日本麦酒」というブランドで。

情報が今ほどに早くない時代ですから、起こりえた話ではないかと。


東京都心の大資本であったはずの日本麦酒醸造は戸惑いを隠せなかったのではありませんかね。
石川酒造の造ったビールの販路は浅草、深川、赤坂、牛込と東京各地に及んでいたそうですから。


それで後発のブランド名を「恵比寿」にしたかどうかは分かりませんけれど、
(カブトやらクジャクやらと今とは異なるネーミング感覚では、恵比寿でも不思議はないですが)

それにしても日本麦酒醸造で造っているわけではない「日本麦酒」が出回っていることには
違和感があったことでしょう。


という流れで見ると、自分がふと思ったことと同じ想像に到達するは必定と思いますが、
要するに大資本に小規模業者が潰された…てな構図なのかもしれませんですねえ。


何せ…とこれも傍証というより、憶測を助長するだけですが、
日本麦酒醸造はやがて三井物産の梃入れによってビール業界の大同合併を図り、
大日本麦酒株式会社というシェアの大きな会社を作る肝いりであるわけで。


まあ、大手も対応に苦慮するくらいな過当競争であっただけに
(取り分けエビスの馬越恭平とカブトの根津嘉一郎 のビール戦争は有名ですね)
小さな醸造元はどんどん淘汰されていく中での話かもしれませんが、
ブランド名がブランド名だけに想像を掻き立てるところなのでありますよ。


ちなみにビール事業から撤退した石川酒造はビールの商標(上の写真に見るラベル)を
大阪の日の出ビールに譲渡したそうですが、この商標が大阪麦酒(現アサヒビール)との間で
訴訟になったのだとか。同じような旭日のマークですものね。


日の出に売られる前、石川酒造では明治21年からこのラベルを使ったものと思いますけれど、
大阪麦酒が旭日マークを使い始めたのは明治25年からとのこと。
今では旭日マークはアサヒビールの専売特許のようになってますが、
どうしても小さなところは大きなところに叩かれる運命にあるのですなあ。


…と、造り酒屋で思わぬ日本のビール黎明期のお話ではありました。


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